自分は何者?
憐れみ、という言葉はキリスト教会の中でよく使われる言葉である。そもそも聖書にこの言葉がよく用いられるのであるが、意味を調べてみると次のように説明されていた。
憐れみ・・・人の苦しみや悲しみに、深く同情すること。 似た意味の言葉として、人に対して深い愛情を抱く「慈しみ」がある。 どちらも目下の者に向ける感情を表す表現であるが、「慈しみ」が対象を可愛がり、大切にするときに用いられ、「憐れみ」が対象に同情するときに用いられるという違いがある。
祈っても祈っても道が開かれない時、どうしても聞いていただかないと困る祈りがある時にみ言葉を後ろ盾にすることがある。「御言葉にはこのように書かれており、あなたの約束です。ですからこの祈りを聞き届けてください」といった具合である。また自分がどれだけ忍耐して祈り続けているかを説明してその正当性を訴えることもある。が、祈りながら検討外れなことをしている自覚がある。そもそも神様にそのような物の言い方をする自分は一体何者?と思ってしまう。
お世話になった牧師先生
以前にも投稿したが、自分が大変お世話になった牧師先生が数名いらっしゃる。その中に森田一男先生と仰る牧師先生がいる。今から30年ほど前になるが、この先生は自分の家の隣に住んでおられた。普段から親しくしてくださり自分も親のように慕っていた。沖縄なまりのお話がすごく好きでいつも癒されていた。ある時、自分に大きな困難が起こり教員という仕事を辞める決心をした。が、その時の校長先生がそれを許さず3日間の話し合いの末、とうとう自分の方が根負けしてしまい茨城県にある系列の中学校に転勤することになった。その引越し準備をしている時のこと。人のいない時間を見計らってゴミを捨てに行こうとゴミ袋3つを抱えてゴミステーションに向かうと前から森田牧師がこちらに向かって歩いてきた。私を確認して牧師先生は大急ぎで駆け寄り私をハグして「先生・・・」と言ってずっと涙を流しておられた。どこから聞きつけたのか自分のただならぬ困難を知っているようだった。何かを言うわけでもなくただずっと泣いていらした。この涙で自分はどれだけ救われたか分からない。以前から大好きだった森田先生だがこれを機に更に好きになり、その後自分が転勤する先々で森田牧師を招いて特別講演会をもっていただいた。そのような自分にとってかけがえのない先生のメッセージを先日偶然に見つけ、食い入るように視聴した。
あわれみ
森田先生は、ご自身の牧会経験で「ガリラヤに行く」経験を紹介してくださった。そして話の結びに「結局自分の人生は神様の憐れみに支えられた」と心の底から語っておられた。
その通りである。罪深い、悔い改めの意味も十分に分からないような自分が今も生かされているのは自分に可能性があるからではない。自分に何かの能力があるからではない。神様の一方的な憐れみのおかげである。そのことをよく忘れてしまい、自分に祈る資格がありその正当性を主張できる権利があるように錯覚してしまうことがよくある。ノアが召されたのは恵み、憐れみを受けたからである。人類史上最も謙遜と言われたモーセも神様の憐れみによってその召しを受けた。女が産んだもののうちこれ以上の人物はいないと評されたバプテスマのヨハネも神様の憐れみの故に生き、そして弟子が去ってもそれを喜び受け入れ斬首の最期を遂げても尚主を信じ続けることができた。
何も受ける資格がないのに、神様は自分のような者を赦し選んでくださった。憐れみを与える対象として選んでくださった。日常生活の中でこの大切で基本的なことを何度も忘れてしまうことがある。常にこのことを憶えておかないといけない。心の中で「お前は何様のつもりだ」と言いながら。
主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、
出エジプト記24:6
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