神様と自分と問題

今日のこと

今日は少し気分を変えたく送迎のスタートを30分早くした。コース上に神社がありそこに隣接する公園の雰囲気が非常に良いのでそこでゆっくりお祈りしてから1日を始めたかった。神社でお祈りというのもいけないのかとも思ったが仕方ない。一日の無事や家族のこと両親のこと、妻の両親のこと、牧師先生や病気の方々、卒業生や重荷を負っている方々のことを祈った。そして車を走らせ送迎に向かった。自分はあまり運転が好きではないし技術も無い。どちらかと言えば運転歴は長いが下手だと思う。なので技術がない分真心込めて運転しようと心がけている。患者さんのことを第一に考え、特に透析後の疲れた患者さんが車酔いしたり気分が悪くならないよう心がけている。常に同じ速度で運転しブレーキは極端の早めから衝撃がないように、また加速も体が後ろに押されないようゆっくり加速することを心がけている。ある女性の患者さんをお送りしたのだがこの方は昔長距離トラックも運転していたという。しかも競走馬を乗せていたというからベテランである。プロを乗せて走ることほど緊張することは無い。毎回、「今の加速は少し衝撃があったかな」「路面の状況を無視して振動が多かったけど大丈夫だったかな」などと気にしていた。が、今日はこの方が「これ飲みな」と言って缶コーヒーをくださった。自分はコーヒーが好きなのだが何故か缶コーヒーを飲むと気持ち悪くなる。しかし今日はありがたく頂戴して飲ませていただいた。その後ヘビースモーカーの方を乗せて病院に向かった。かなりの匂いだ。病院でこの方を降ろした後も匂いが残ってしまった。仕方がないので窓を全開にしてしばらく走った。今日は「経札おじいちゃん」の送迎はなかったので線香臭からは解放された。殆どの場合、1人ずつを送迎するのだがその度にひとりひとりの人生の重さを感じる。勿論人を乗せて走るということはその人自身の命を預かるわけだからより慎重になるが、その人のこれまでの歴史や生きてきた証も同時にお乗せしていることを考えると自分の責任の重さに圧倒される。できることなら、雪が降る前にこの仕事を辞めたい。送迎が嫌なのではない。慣れない雪道を走ってこの患者さんにもしも何かの危害を加えてしまったらどうしようと毎日真剣に悩んでいるのだ。雪の前に退職するか、再臨がくるか、あるいは異常気象で青森だけ雪が降らない冬を迎えるとか。

神様と問題と自分

多くのクリスチャンはそれに気づいて実行していることだと思うが、自分には最近になってやっとわかってきたことがある。恥ずかしい話であるが今更である。聖書研究とは別に現在ヨブ記を読んでいるが、ヨブの信仰の持ち方や神様との距離の取り方を行間から読み取り気づいたことがある。ヨブは神様に対して不平を言ったり、こんな自分なんてあの時死んでいればよかったのだ、などと言ったりしている。しかし、よくよく読んでみるとヨブは神様とヨブの2人だけの関係を中心にして、その周辺で起こっている問題を認識している。即ち、神様とヨブという二者の関係が円の中に確立されており、その円の外側に問題をおいている。それがヨブ記を読んだ感想である。しかし自分は違う。自分という人間が1人で存在していて、自分に何かの問題が起こると自分とその問題を一つの円の中に閉じ込めてしまう。そして神様に助けを求める。しかし、あくまでも自分と問題は円の中に存在し神様にはその円の外から助けてくれるよう要求している状態なのだ。上手に説明でいていないと思うが、自分の信仰が直ぐに失望に向かいサタンの思う壺になっているのは、神様と自分と問題の三者をおいている位置関係がまずいことに気づき始めたのだ。自分に負いきれない問題を必死になんとかしようと頑張っている、しかしどうにもならないので神様に助けを求めるが神様がそれに沈黙されるので失望してしまう。これが毎度毎度の思考パターンである。求めるべきは問題の解決ではなく神様の存在そのものであるはずなのにそれをいつも忘れてしまっている。神様に対する捉え方が「問題を解決してくれる便利屋さん」程度になっており、それが解決してもらえないと「もう人生なんてどうでも良い」と自暴自棄になる。これではまずい。本当にまずいと真剣に考えるようになった。もう一度神様との関係を構築し直さないと。

It Is Well with My Soul

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