教員として心がけていること

生意気であるが生徒さん方と接する際に目標なるものを常に意識して教員生活を送って来た。自分はクリスチャンという背景があるので少し理解してもらえない点もあるかと思うがここに書かせていただきたいと思う。

全ての生徒、それは難しいとしてもできるだけ多くの生徒の痛みに寄り添える教師でありたいと常に考えて来た。また専門科目の「物理」では自然界が単純で美しい秩序に従って今尚運行し続けその背後にある存在を意識しそれを発見することを授業の目標として来た。奢らず決して高ぶらず生徒一人一人を尊い魂として尊敬の念を持って接することを意識したい。

高校3年で停学

自分は高校3年生で停学になった。理由は喫煙。今では喫煙で停学になる学校もあまりないのかもしれないが当時、また自分のいた学校はかなり厳しく指導も徹底していた。自分は初犯で喫煙をしたというよりその場にいただけという理由でかなり停学期間は短かったがそれでも2ヶ月の停学。今では教育権の剥奪と逆に訴えられてしまう長さだ。一番辛かったのは親を悲しませてしまったこと。全寮制の学校ということで学費が毎月サラリーマン給与の1/3ぐらいかかる。苦労して、無理して送ってくれていた学校で好き勝手なことをして停学になって帰ってくる。本当にばかな子どもだと思った。しかも高校3年生、受験直前の大切な時期にである。毎日反省しながら家から出ることもなく考え事をしたり勉強をして過ごした。寂しく過ごしていたが一つだけ楽しみにしていることがあった。それは夜になると掛かってくる電話だ。舎監のY先生がほぼ毎日のように電話をかけてくださる。自宅からではなく寮の公衆電話からかけてくださるのである。「元気か?」と言いながらその辺にいる自分の同級生に代わってくれる。もともと明るいY先生だが電話では更に大声で笑いながら「今日はのぉー…」と言いながら色々な話、くだらない話をして私を笑わせてくださる。舎監専用、仕事用の電話を使えば良いのに他の生徒の声を聞かせたく寮の公衆電話を使う。まだテレフォンカードのない時代である。Y先生はいつも財布に10円玉があると電話用に貯金箱に入れてくださっていたとのこと。こういう先生がいらしたからくさらず、また将来はY先生のように人の痛みに寄り添える人間になりたいと思うようになれた。もし停学になっていなかったら自分は教員になっていなかったのかもしれないとすら思う。

浪人して二流大学へ

自分で言うのも変だが、当時の受験生にしてはかなり勉強したほうだと思う。寮生活(掃除や洗濯も自分でやり一般の授業以外にも「勤労体験学習」を週に8時間行う)なので勉強時間を捻出するのがかなり難しい。早朝から深夜、休み時間まで効率よく用いないと勉強が追いつかない。それも全てやったが結局浪人。6月頃まではエンジンがかからずアルバイトをしたりパチンコに行ったりしていたが夏前からかなり本気になって勉強するようになった。予備校では良い先生にも多く巡り会えた。自分と同世代の方なら分かるかもしれないが渡辺次男先生、「ナベツぐのあすなろ○○○」と言う数学のシリーズ本を執筆された先生の授業も受けさせていただいた。超怖かったけど愛のある「鬼の遠藤」先生には物理を徹底的に鍛えていただいた。寸暇を惜しんで勉強したが合格したのが誰もが羨むような一流大学ではなかった。難関大学受験生が滑り止めに受ける大学にやっと合格できた。大学に入って「自分の力はこの大学のレベルと釣り合わない」などと高飛車なことを考え親に内緒でもう一年浪人しようとさえ考えた。しかしこの経験が自分の教師としての幅に繋がった気がしている。負け惜しみではない。努力しても点数に繋がらない生徒さんの気持ちが理解でき、また自分の出身した大学で生徒さんや保護者を選別するようなことをしない教師になれたと思う。人間の真の価値というものを見失わない生き方は「努力しても二流大学にしか合格できなかった」という自分の弱さを直視することでできるようになったと思っている。人の価値は出身した大学、就職した会社のネームバリュー、就いた役職、結婚相手で決まるのでは決してない。自分のようにダメな人間を「価値がある」と言ってくださる神様によって決まる。現にキリスト教では救われるために人間側にできることは何もないことを徹底的に教える(プロテスタントの場合)。

全ての生徒を価値ある魂と考え尊敬の念を持って接する

生徒さん方と話すことが大好きな自分は機会を見つけて色々な話をするようにしている。教員であれば何となく身に覚えがあるかもしれないが、自分が全ての生徒さんと平等に関わっていないことに気づく。これは教師によって違うが、例えば成績上位者たちを更に伸ばそうとこちらに力を入れ下位の生徒にはあまり目を向けない先生。生徒指導で問題ばかり起こし何度言っても行動が改まらない生徒にばかり目が行きその生徒を何とかしようと特別に目をかける先生。自分もそういうところがあった。今もあるのかもしれないが、ある時からそれに気づかされ意識してそれをなくすように努力した。そのあることというのが生徒さんとの対話だ。彼は成績も中の上。集団の中でもみんなから好かれているものの特にリーダーシップを取ることもなく、居ると安心されるタイプ。教師の周りに集まる生徒の少し外側でその様子を笑顔で見ているタイプの男子生徒。こういうタイプは教師側も安心してしまって密なコミュニケーションを取るのを忘れがちになってしまう。そんな彼が「僕も他の人たちのように先生たちからもっと愛されたいし関わって欲しいんですよね。少し問題を起こしたら先生も僕に目をかけてくれるんですかね。」と笑いがなら冗談のように言った。彼の精一杯の叫びであり精一杯の優しさなのだと理解した。自分が大人として、クリスチャン教師として恥ずかしくなった。心当たりがあったからだ。自分では平等にしているつもりでもいつの間にか自分のようにできない生徒、ダメな生徒に行きがちだったのだ。どの生徒も価値があり教師の都合や好みで手のかけ具合が違ってはいけないはずだ。彼らを尊い魂として扱ってきたのだろうか。彼らがいつまでも高校生でいると勘違いして舐めてかかってはいなかっただろうか。色々な疑問が一気に自分に向けられた気がした。自分と同様、目の前の彼にも神様は「価値ある存在」と言われた。それを忘れていたのではないかと猛省した。

物理で学んで欲しいこと

「自然と聖書は神の愛をあかししている」とある書物に書いてあった。自然界はそれ自身非常に美しい。アメリカをキャンプしながら旅行した時に見た自然界の美しさは忘れられない。グランドキャニオンの絶景、モニュメントバレーの芸術的センス、イエローストーンの広大さ。海に潜っていても同様のことを感じる。日本は四季がはっきりしているところが多く、秋になると紅葉(こうよう)が見られる。そもそも神様が最初に創られた地球には紅葉は無かったはずである。罪がない状態の地球には「死」が無かったからだ。紅葉は「死」のプロセスでその色が変化し美しく見えるもの。自然界を見るだけで「美しい」と思える。これが自然科学の第一歩であると思う。物理は表面に見える美しさだけでなくその少し奥を覗くと見えてくる秩序と法則の美しさを探求する学問だと思う。星の美しさに魅了されることがある。しかしほんの少しその奥を掘り起こして見ると惑星の運行に、単純な法則があることに気づく。中々その法則にたどり着けなかった師であるティコ・ブラーエ。その愛弟子であるヨハネス・ケプラーがその法則を見事に探し当てるのである。物理といえばニュートンであるがニュートンが物理以上に時間をかけていた研究があったことを知っている人はそう多くはないだろう。ニュートンは聖書研究に多くの時間を費やしたのである。そしてダニエル書に出てくる2300の夕と朝の預言を正確な計算で解釈したのである。確かに物理は公式を覚えてそれを活用できれば実力に直結する。だから学びやすい。賢い受験生は物理の方が得点し易いと受験科目に選ぶ。しかし私が教えたかった物理は受験の道具としてのそれではない。これを学ぶことで自然界がいかに単純で美しい調和と法則に満たされているのかを体感してもらうのが狙いである。自分の専門は素粒子(理論物理)であるが素粒子の世界にも美しい調和がある。マクロな世界、ミクロな世界共に調和と秩序がありその源が神であると私は信じている。そしてそれを生徒さん方に伝えたく教壇に立っている。受験科目として学ぶ時、もしかすると学ぶことが辛くなるかもしれないが学ぶ本質を理解すると学ぶことが楽しくなるはず。それを物理で体験して欲しいのである。

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