賛美

教会

昨日、教会で非常に素晴らしいメーッセージを拝聴した。この教会の牧師先生は信徒の霊性に対して非常に心を配り最善のことをなさる先生である。韓国出身ということもあり著名(わたしどもの教団では著名な)な牧師先生やその他の機関スタッフを招いて礼拝メッセージや講演会、健康講話などを開催してくださる。また信徒の証も多く毎週霊的に恵まれている。

妻に聞くと、この牧師先生はクリスマスやお正月の礼拝にも教会とは別に個人的に特別な配慮をしてくださるとのこと。恐らく自腹でプレゼントを買って集まってくれる子ども達にプレゼントを渡している。また毎週の礼拝では帰りにお菓子をいただくことが多い。自分は、教会員のどなたかがお土産として教会に持ってこられたものを分けているのだと思っていた。ところがそうではないようだ。牧師先生ご夫妻が毎週どこかで買ってきているとのことで本当に驚いた。

何か物をあげることが素晴らしいこととは思わないが、礼拝が始まる前の10分間はすべての座席をまわって信徒一人一人に頭わ下げて挨拶されている様子から、「この牧師先生は心から羊を大切にしようと心を砕いていらっしゃるのだな」と思わされる。

かつての保護者でもある、人格的にもクリスチャンとしても尊敬できる牧師先生にお会いできたことを心から感謝している。沖縄に来たことが本当に良かったのか、今でも悩むことはあるがこの教会に導かれこの牧師先生にお会いできたことだけでも感謝すべきことであり沖縄に移住した祝福だと言える。

気づき

昨日、2023年6月10日安息日礼拝は信徒礼拝で一人の青年が証とメッセージをしてくださった。賛美についてのメッセージであったが非常に多くのことを学ばせていただき、また反省させられた。

まず賛美とは礼拝(神様を崇めること)に繋がるすべてを指すと教えていただいた。教会のお掃除や受付の仕事、礼拝の司会や放送設備、ライブ配信の働きなど全てが礼拝行為だという。なるほど、その通りである。以前に「礼拝の中心は聖書朗読である」と教えていただいたことがあるが、神様の言葉を聴くためになされるすべての行為とそこでささげられるものの全てが賛美ということだろうか。

また、もう一つ非常に重要なことを気づかせていただいた。より良いものを賛美として捧げようとする心は神様を知るものに与えられている。個人は神様に喜ばれることが何なのかを考えながら自分のできる最善を賛美としてささげる。個人の賛美はこれがベースになっていないといけない。しかし、自分の考える最良最善は、果たして神様が喜ばれるものかどうかは分からない。メッセージではカインとアベルのささげ物に言及し、人が考える最善でも神様はそれを受け取れないことがあると教えていただいた。

本当の賛美

こうなってくると、いったい本当の賛美って何なのか?果たして人間は本当の賛美をする力が与えられているのだろうか?と疑問を持ってしまう。

教員時代に「心を神様に向けて賛美しましょう」「心を合わせて神様を賛美しましょう」などとよく言っていたが賛美そのものを理解していなかったことを恥ずかしく思う。賛美歌を歌ったり演奏することだけが賛美だと思っていた自分が無知すぎる。そもそもそれぞれ神様との関係性が異なる複数人が心を合わせることなどできるのだろうか。

昨日の礼拝メッセージを伺いながら感銘を受けながらも混乱する気持ちにもなった。

易しいようで難しい、難しようで易しい

礼拝メッセージの中でひとつ大きなヒントとなる言葉があった。「要するに誰を賛美しようとしているのか、その対象が問題である。その対象が神様なのか自分なのか。」

短いセンテンスだったが心に残っている。同じ行為でも心から神様を思って賛美しているのか、その行為を見て他の人が自分の信仰深さや良い人ぶりを評価(賛美)してもらおうとしているのか。

いつも、何事をする時にも自分に心が向いておらず100%神様にだけ心が向いている人生を歩みたいものである。昨日の礼拝メッセージから本当に大切なことを教えていただいた。

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