本当に?
イエス様は失望せず絶えず祈ることを教えるために譬え話をされた。
「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。」
ルカによる福音書 18:1-8 口語訳
しかし、現実的なこととして失望しないで祈り続けるなんてできるのだろうか。自分の体験からそれは甚だ難しいことだと思っている。もしかしたら他の人には出来て、自分だけが出来ないのかもしれない。その祈りが真剣であればあるほど失望の度合いも大きい。
耐えられない試練
これも本当かな?と思ってしまう聖書の言葉。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
コリント人への第一の手紙 10:13 口語訳
では何故クリスチャンであっても、解決を死に求めてしまうのだろう。自分にはよく分からない。
でも
祈りがきかれない、答えられないことに行き詰まりを感じている。が、かと言って自分が祈った通りに道が開かれたから神様を信じるというのもご利益信仰のような気がする。自分が主で、自分が祈った通りに動いてくれる神様が従、という関係になってしまう。
祈りは願った通りには答えられないけれど「必ず神様がこの祈りを聴いていてくださっている」と信じる、今の自分にはこれが精一杯かもしれない。
失望の涙を拭きながらもう一度あの聖句を声を出して読み、神様のもとに近づいてみたい。
「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。」
創世記 28:15 口語訳
聖書研究ガイド21年4期6課 1080p
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