サーバントリーダーシップ
菅さんが続投を断念し急に自民党内がザワザワしてきた。何かハイエナを見るような気持でいる。岸田、河野、高市、石破、野田(敬称略)の名前と出馬や不出馬調整の話題が1時間毎に更新されて行く。以前どこかの知事だった方が「自分だったらコロナはとっくに収束させていた」と豪語して居るのをみて、5年ぐらい前に公私混同して知事を降ろされたのは誰だったかと聞きたくなった。政治家の色々なしがらみなどあまり興味はない。この国を正しい方向に導ける人、本当の意味で国人に仕えるサーバントリーダーシップがとれる人は誰なのか、そこにのみ興味がある。
イエスというユダヤ人が2000年ほど前に実在した。この人は困って居る人を助け、病人を癒し、罪人を愛し、疲れて居る人を励ました。逆に当時の指導者階級に対しては非常に厳しく対応し彼らの持つ罪の本質を鋭く指し示した。その結果この指導者層からは命を狙われるようになった。が、逆に貧困層やイエスに助けられた人たちはイエスこそ自分たちユダヤ民族の王に相応しい人だと結論づけ何とかして彼を王にしようと試みた。例えば男性だけでも5000人は居る大群衆に対して、たった2匹の魚と5つのパンで全員が満腹になるまで食物を与える奇跡を行った。この時もふたりずつ組みにして各地に派遣した弟子たちが伝道旅行から戻ってきて報告会を開いた直後だった。この後イエスは彼らをしばらく休めせようとしたが、大群衆がイエス一行を見つけついてきてしまったのである。勿論イエスを王に祭り上げようという目的である。勿論、イエスには王とは正反対の方向に歩を進めなくてはならない使命があったので群衆の説得に応じることはしなかった。いまの指導者と大きく違う。誰かが身を引けば間髪入れずに「自分こそ次のリーダーだ」と名乗りをあげる。しかしイエスは群衆から押し出されるようにして王にされそうになった。
眼差し
この5000人を養う奇跡の後、今度こそ本当に弟子たちを船に乗せて向こう岸(カペナウム)に向かわせた。イエスは一人ガリラヤ湖畔の山に登って祈っておられた。これからイスラエルの民に対してどのように自分の十字架を説明して行くべきかを祈り求めていたのかもしれない。また、この直前に入ってきたニュースで従兄弟である「バプテスマのヨハネ」が斬首されたことを聞いているのでそのことを祈っていたのかもしれない。何れにしても山に登って祈っておられた。ちなみにガリラヤ湖は文字通り「湖」であるが世界でも珍しい低地湖である。海抜-231mという低地にあり死海に次ぐ低さである。なので周りは確かに山なのだがそれはガリラヤ湖からみたら、の話であって周りの山が海抜0mの大地なのである。昔イスラエル、ヨルダンを巡るいわゆる「聖地旅行」に行った際ガリラヤ湖周辺には何度も行った。船にも乗ったが、周りが山なので「おろし」風が吹き込んでくる。そのため湖であっても強風や嵐になりやすい。実はこの時、イエスの弟子たちは既に9時間も強風のため漕ぎ悩んでいた。以前にもガリラヤ湖で嵐に遭い大変な目にあった。ただその時はイエスが一緒にいらした。今回はそうはいかない。イエスは乗船していないので自分たちでなんとかしなくてはならない。必死に操船する弟子たち。一方イエスは…。
ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
マルコによる福音書6:48
イエスはその様子をご覧になっていたのである。「こっちは困っているんだから見てないで助けて」と言いたくなるかも知れない。実際、この直後イエスは彼らを助ける。が、自分はこの出来事の中で最も感動したのが「ごらんになって」というところである。イエスは見ていてくださった。そして今も見てくださっている。自分の苦境、涙の祈り、絶望的な気持ちでイエスにすがりつく惨めな姿。これら全てをイエスは見ていてくださっている。知っていてくださっている。それだけで励まされる。
イエスは彼らをお忘れになっていなかった。陸上で見守っておられる イエスは、恐怖にとりつかれたこの人たちが嵐と戦っているのをごらんになっていた。一瞬間も、イエスは、弟子たちを見失っておられなかった。イエスの目は大事な人たちをのせて嵐にもまれている舟を最も深い心配のうちに追っていた。なぜなら、この人たちは世の光となるのだった。母親がやさしい愛情をもって子供を見守るように、憐れみ深い主は弟子たちを見守っておられた。彼らが自分の心に打ち勝ち、きよくない野心を征服し、謙遜な気持で助けを祈った時、その助けが与えられた。
各時代の希望 電子版 p387
今日は自分が職員礼拝の担当だった。以上のようなお話をさせていただいた。
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