無学な者
日本で教育といえば「学校教育」を指すことが多い。自分も日本の学校教育制度によって学ばせていただいた。大学までの教育を受けた。修士や博士課程にはいかなかったので大学までの勉強しかしていない。しかも大学で学んだことの殆どを既に忘れてしまった。高校程度の物理と数学が辛うじて分かる(かもしれない)程度の学力しかない。その前提であることを考えていた。
現在読んでいる本は聖書の福音書を解説しているもので多くの教訓と示唆に富んだものである。イエスキリストには「弟子」或いは「使徒」と言われる人たちがいた。常に一緒にいたのが12人だと記録されている。ガリラヤ湖で漁をすることで生計を立てていた人が結構いる。当時のユダヤでは律法と預言を学ぶことが学問であった。なのでガリラヤの漁師たちは技術はあっても律法と預言を学んでいなかったので「無学な者」であった。知恵があることで有頂天になっている者を辱めるために無学な者を用いた、と理解していた。しかし、今日読んだところには少し違うニュアンスのことが書かれていた。
イエスは無学な漁師たちをお選びになったが、それは彼らが当時の言 い伝えやまちがった慣習によって教育されていなかったからである。彼 らは生れつき才能を持った人たちで、謙遜で教えやすく、キリストがご 自分の働きのために教育なさることのできる人たちであった。
各時代の希望電子版 p236 海辺での召し
彼らは無学であったかもしれないが、「有能」であると認められたというのだ。知識があることは却って使えない、ともとれる表現である。ちなみにこの著者は別の書物で教育に関する色々なアドバイスをしておりより高度な教育をおさめることを奨励している。そして実際に多くの教育機関を立ち上げている。なので著者は教育が悪だという考えを持っている人ではない。
この言葉を読んでひとつのことを思い出した。「アーミッシュ」である。以前にも投稿したことがあるが、米国ペンシルバニア州やカナダなどに居住するドイツ系移民の宗教団体である。自給自足をしており原始キリスト教会のような素朴で質素な生活をする。全世界におよそ35万人いると言われる。教育は彼らのコミュニティー内で8年間行われる。科目は算数、英語、ドイツ語。それ以上の教育を受けることで知識が増し謙虚さが失われるという理由から教育期間は8年とされている。また聖書以外の本を読むことも禁止されている。知識を害悪と捉える典型だと思うが、イエスキリストの弟子集めにも同じような思想が根底にある気がした。
学問
前述の通り自分は大学までの教育しか受けておらず、しかもその内容の殆どを忘れている。なので、学問を語る資格は無いのだがこの文章を読んで感じたことを自分なりにまとめてみた。
(1)神を理解するのも学問
学問に優劣はないと思っているが、自分は自然科学系の勉強しかしてこなかったので他の領域がよくわからない。なので自然科学に限って、の考えである。自然科学を学ぶことは自分の信仰、聖書の神様を理解する上で非常に有益であると思っている。ある講義で90分の授業の殆どを先生がずっと式を展開しそれをノートに書き写すことがあった。ただでさえ理解が遅い方なので書き写しながら理解するのには苦労した。が、後半に向かって少しずつ積分の次数が減ってきた。複雑な式が徐々に落ち着いて単純さが見えるようになった。そして結論。「長々と式を展開してきたが、最終的にエネルギーは温度にしか依存していないことがこの結論から分かる・・・」と言って最後にとても単純な式を示してくださった。思わず涙がこぼれた。自然界を学ぶことは神様に出会うことであると物理の講義から何度も経験してきた。神様は自然界を「調和、美、単純」の3つを兼ね備えて創造されたと信じているが、高等教育の物理を通してでないと行き着けない領域、神様をより深く理解する領域があることは確かだと思う。古典物理学、特に力学分野の基礎をつくったアイザック・ニュートンは次のように自分のことを述べている。
I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。
こと自然科学に関していえば、やはり学ぶことが神様を知ることに繋がると思っている。
(2)神を否定するのもまた学問
しかし、一方で知識が増すことで神様を否定することに繋がることもある。ノアの洪水後に、二度と洪水によって滅ぼされないよう天にも届く高い塔を作ろうとした。知識や技術が神様に叛逆した例であろう。前述の自然科学であっても悪に心を支配されその知識や技術を神様を否定することに利用することもできる。そうであればやはり知識など無い方が良い。
土台
要するにどのような土台の上に「学問、知識」を構築するかが問題なのだ。富、名声、人間の考える幸せの追求。これらを土台とするのは良くないとイエスキリストは言う。目に見えないもの、朽ちないものを土台とすべきだと。多くの中学校、高等学校では中間試験が終わり後半に向けて新たな学びが始まっている頃だと思う。将来を背負う彼らが神様を意識し、目に見えないイエス様を土台として知識を積み上げることを願うものである。
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