詩篇23篇
今日の聖書通読は昨日から始まった「羊飼いの詩篇」、有名な詩篇23篇からだった。
中学生の頃、聖書の授業は勿論国語の授業でも暗唱したのを懐かしく思い出した。当時はそのありがたみも十分に理解できていなかったと思うが、国語の先生が教科書以外に「キリストへの道」という書物や「聖書」を用いて授業をされていた。また別の国語の先生は古文の勉強のために昔の「日本キリスト教団出版局」発行の讃美歌を使っていた。古文の勉強に最も適していると仰っていたのを思い出す。
これに影響され、自分も教員になってしばらくした頃「物理」の授業を「聖書」を用いてやったことがあった。これはかなり苦労したしこじつけになってしまうところが多く2年ぐらいでやめてしまった。物理が導く法則の世界から神様の御業(みわざ)を解説した方が良いのでは無いかと思うようになりやめてしまったのだが、どの教科目からも神様に導く方法があるはずなので、クリスチャン教師はチャレンジしてみると祝福になると思う。
それにしてもわずか6節しかない詩の中にイエス様のご性質とその働きの全てが凝縮されてることに驚かされる。
1主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
2主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
3主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
4たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
5あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
6わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
詩篇23篇
文語訳
先日購入した文語訳聖書では次のように書かれていた。
ダビデのうた
一ヱホバは我が牧者なりわれ乏しきことあらじ
二ヱホバは我をみどりの野にふさせいこひの
水濱にともなひたまふ
三ヱホバはわが霊魂をいかし名のゆゑをもて
我をただしき路にみちびき給ふ
四たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも
禍害をおそれじなんぢ我とともに在せばなり
なんぢの笞なんぢの杖われを慰む
五なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ
わが首にあぶらをそそぎたまふ
わが酒杯はあふるるなり
六わが世にあらん限りはかならず恩惠と憐憫
とわれにそひきたらん
我はとこしへにヱホバの宮にすまん」
詩篇23 文語訳
羊飼い
キリスト教の世界にいると当たり前の表現になっているので何の違和感も感じないが、よくよく考えているとおかしなところがある。神なるイエスキリストが羊飼いに例えられていることだ。イスラエルを旅行しているときにも説明を受けたのだが、羊飼いは決して裕福で誰もがやりたがる仕事では無い。モーセの時代には羊以外の動物も飼いその多さが生活ぶりの豊かさになっていたが、そう多くはない羊だけを飼っている羊飼いは決して裕福ではない。夜中も眠れず安息日も忠実に守ることができない。だからユダヤ人からは忌み嫌われる職業だったようだ。そして羊がなかなか愚かな動物である。調べてみると目が悪いようだ。視野は広いが奥行きを感知する力に欠けるところがあるため道に迷いやすいとのこと。単独で行動すると道に迷うので群れを作る習性がある。集団に優劣はあまりないようだが角や身体の大きさによって優劣が決まることもあるらしい。そして何と言っても臆病なのが羊の特徴である。ある意味、人間を羊に例えるのは理にかなっている。しかし、その人間を象徴する羊を導くため神なるイエスキリストを「羊飼い」と例えることには無理がある気がする。要するに何に例えようとも人間と神様が同じ土俵で語られること自体に無理がある。その、同じ土俵で語れない人間を「価値ある存在」と言ってくださるのだから、キリスト教はとんでもないスケールをもつ宗教だといえる。
昨日、聖書研究の解説動画を視聴しているときに牧師先生が律法の変更について「もしも律法(道徳律)を変更することができる神であれば、イエスキリストを十字架にかける以外の方法を考えることができたはずである」と仰っていた。本当にそうである。十字架の死と血による贖いに値する「価値あるもの」として人類をみていてくださる神様のありえない愛に畏れを感じる。
詩篇23篇を読んで、更に多くの祝福をいただくことができた。
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