詩篇

ダビデの歌

今朝の聖書通読箇所は詩篇13篇~22篇だった。短いところなので3回読んだ。13篇はダビデの窮状を訴える「主よ、いつまでですか」という問いかけから始まる。この「いつまでですか」という問いかけには自分も100%共感できる。出口が見えずこのままの状態がいったいいつまで続くのかわからない状態は、神様が共にいてくださると信じていても不安になる。また恐れを感じる。もしかしたら出口にたどり着けないのかも知れない、ならば自分で出口を作った方が良いのか、などと考えてしまう。そして今日の終わりが22篇。最初、何気なく読んでしまいダビデが本当に神様から見捨てられたと思いひどく落ち込んで生きる気力を無くし自暴自棄になっている詩にという位置付けで読んでみた。やはり共感できる内容だ。ところが、もう一度読んでいるときに「あ、22篇だった」と大切なことを思い出した。羊飼いの詩篇とも言われる場所であり、イエス様の十字架上でのお苦しみを預言したものであることを思い出した。

1わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

2わが神よ、わたしが昼よばわっても、
あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

3しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる
あなたは聖なるおかたです。

4われらの先祖たちはあなたに信頼しました。
彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。

5彼らはあなたに呼ばわって救われ、
あなたに信頼して恥をうけなかったのです

6しかし、わたしは虫であって、人ではない。
人にそしられ、民に侮られる。

7すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、
くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、

8「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。
主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

9しかし、あなたはわたしを生れさせ、
母のふところにわたしを安らかに守られた方です。

10わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。
母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。

11わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。

12多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、

13かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。

14わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、
わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。

15わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。
あなたはわたしを死のちりに伏させられる。

16まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、
わたしの手と足を刺し貫いた。

17わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。
彼らは目をとめて、わたしを見る。

18彼らは互にわたしの衣服を分け、
わたしの着物をくじ引にする。

19しかし主よ、遠く離れないでください。
わが力よ、速く来てわたしをお助けください。

20わたしの魂をつるぎから、
わたしのいのちを犬の力から助け出してください。

21わたしをししの口から、
苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。

22わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、
会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。

23主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。
ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。
イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。

24主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、
またこれにみ顔を隠すことなく、
その叫ぶときに聞かれたからである。

25大いなる会衆の中で、
わたしのさんびはあなたから出るのです。
わたしは主を恐れる者の前で、
わたしの誓いを果します。

26貧しい者は食べて飽くことができ、
主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。
どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。

27地のはての者はみな思い出して、主に帰り、
もろもろの国のやからはみな、
み前に伏し拝むでしょう。

28国は主のものであって、
主はもろもろの国民を統べ治められます。

29地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、
ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、
みなそのみ前にひざまずくでしょう。

30子々孫々、主に仕え、
人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、

31主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

詩篇22篇

数年前の夏に自分も神様の見捨てられたのではないか、と思ったことがある。急に自分罪が示され、自分の生涯が全て悪の支配下で罪ばかり犯し人を傷つけ迷惑をかけてきたことを悟った。自分に出会った人が全て不幸になっている現実を突きつけられどうして良いのか分からなくなった。そして、神様からももう見捨てられたと思った。あれから何年経ったのか。神様に見捨てられたという思いからは解放されたが自分の罪は毎日示されている。その罪の重さゆえ、時々「何で生まれてきたのか。これほど罪深い生活を送ることが分かっていたのなら神様は何故自分を存在させたのか」と疑問を持ってしまう。

何故

神であるイエス様が死んで、代わりに自分が生きられるようになった。考えてみるとキリスト教の神様はおかしなことをされる、と思う。神様が死んでしまう宗教なんてありえるのかと思ってします。一番偉いところで人間を観察して悪い人間を滅ぼし可能性のありそうな人間を訓練し何とか良い人間に作り変えていく神様なら、宗教としての合理性があるように思う。しかし、どうしようも無い再生不可能に見える人間のために神様が死んで、可能性の無い人間が生きるようにしてくださったとは何とも道理に合わない気がする。しかしこれがキリスト教の本質であり真骨頂であるから仕方ない。

そのスケールでものを考えると、「主よ、いつまでですか」と嘆きたくなる問題がとても小さなものに見えてくる。

その後

ダビデの嘆きは21節で終わり、22節からは神様に対する感謝と讃美が綴られている。そしていよいよ23篇へと続いていく。ダビデもこれから表せられる祝福に気づいたのだろうか。22篇から別人が書いたのかと思ってしまうほど内容が変わってしまう。何か、自分の人生にも似ている気がする。22篇の前半2/3は苦しみに対する嘆きと叫び、ところが後半1/3は神様への信頼と感謝と讃美に満ちている。自分はまだまだ呟き、不信仰に陥り、嘆き、祈りが聞かれないと言って叫ぶことしかできない人間だが、少しずつ変えられて行きできるだけ多くの感謝と信頼の讃美を口にできる者になりたい。

今日の聖書通読でとても大切なことを学ばせていただいた。

シャウト 喜び叫べ – THIRD PLACE WORSHIP –

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