手を置く

内村航平選手

インターネットのニュースで内村航平選手の予選通過できなかったことを知った。一生懸命に努力してこの日に備えてきたのにまさかの落下。本人は本当に辛く失意のどん底に突き落とされたのではないかと思う。多くの世界でそうなのかもしれないが一瞬の、またひとつのミスが命取りとなりその後の運営を決定づけてしまう。本当に気の毒で仕方ない。勝つことだけに情熱を注いできたアスリートたちは自分のような者には決して分からない苦労があり、またそれを乗り越える強靭な精神力があるのだと思う。内村選手がインタビューで自分はもう檜舞台から去った人間、これからは後輩のことを考えて何をすべきかを決めて行きたいと語っていたという。こういうことで世代交代していく世界というのもまたシビアだとつくづく思う。

五所川原立佞武多

世代交代で思い出す事がある。五所川原の立佞武多である。当初8月4日から開催が発表されていたネプタ祭りもコロナの影響で中止が発表された。これで2年連続の中止である。五所川原の立佞武多は3基が街を練り歩く。3年を過ぎたネプタが翌年には解体され新しいものに世代交代するのである。今年の予定されていた3基は最も新しい「暫」、次に新しい「かぐや」そして最も古い「神武天皇 金の鵄を得る」。今回もし開催されていたら「神武天皇 金の鵄を得る」をみる最後の年となるはずだった。聖書の中にもバプテスマのヨハネという人物が登場する。彼は野生的な生活をしながら自分の後にくるイエスキリストを紹介し、また弟子をつくっていた。かなりの人気があった事が聖書の記事からうかがえるがイエスキリストの登場とともにその露払いの仕事も終わりに近づく。彼の弟子だった人もイエスキリストの元に行ってしまう。しかしバプテスマのヨハネはそれで満足だった。世代交代という厳しい現実の中で何を見ているかでその行動が大きく異なる気がしている。

手を置く

今日の礼拝はオンライン放送によるビデオ礼拝だった。牧師が他の教会と兼ねている地方教会にはありがちなことである。堀牧師という先生がお話をしてくださったが非常に感銘深く、初めて知ることを教えていただいた。話の中心テーマはイエスキリストに頼る、委ねるということだった。イエスキリストの十字架以前には人の罪を贖う方法として犠牲制度がとられていた。動物(主に傷のない子羊)に手を置き人間の罪をその動物に移し、その動物を殺し血を流す事で一時的に罪が清められるという制度である。手を置くことで罪が移るという考え方には疑問があるかもしれないが、罪を人のせいにすることは良くあると思う。聖書の中にもアダムとエバが最初の罪を犯した事が書かれている。神様からのけん責に対してアダムは「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」、とエバに罪をなすりつけようと転嫁の努力をする。しかもここでアダムはエバだけでなく、「あなたが一緒にしたあの女」と神様にも責任を転嫁しようとしている。罪はなすりつけるという考え方は罪が起こった時からあった考え方なのである。何れにしても子羊の頭に手を置いて自分の罪を移すのである。この時の手の置き方がどうであったかを堀牧師は教えてくれた。自分は子羊の頭に軽く手を置くイメージだった。しかし実際はそうではなかったようだ。子羊に対して罪を犯した人間が全体重をかけるように手を置いていたというのだ。イエスキリストに頼る、委ねるということは自分の一部ではなく全体重を任せることでありそこに信仰があることを教えていただいた。この点について自分には思い当たる節がある。神様を完全に信頼し祈り続けているのだが、どこかでそれが答えられなかった時に失望落胆してしまう状況を思い浮かべてしまう。その時のために予防線として全体重ではなく一部は自分の考えや納得できる状況に残して祈っている事がある。今日の礼拝説教でこれが全くの見当違いで神様に対する冒涜であることを学んだ。また別の説教で「什一献金」で神様を試みてみよ、というお話を伺った。困窮する中での什一献金は非常に困難であり信仰が必要である。しかし必ず神様はその状況を変えてくださることを約束しておられ、またこの事で神様を試みても良いとおっしゃっている。もっと真剣に神様を信じきる事、委ね切ることを学んでいかないといけない。たくさんの祝福をいただいた安息日だった。

2021年7月24日 安息日礼拝〈ライブ〉
メッセージは1:04:16から

五所川原立佞武多の館の動画

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