進路サポート
2018年、教頭から一担任に戻った。およそ20年ぶりの担任だったので心が躍った。学年主任と教頭でおよそ20年間担任を外れていた自分にはチャレンジしたいことが山ほどあった。しかし、自分が教頭でありながら教授法や学習指導に対する考え方、また導入される教材や取引先までを決定する権限は持っていない。全て教師会で決定する。強い意見があれば、考えなくそれに同調する教員もいる。例えば、自分はベネッセがあまり好きではない。かつてベネッセに関わっていたこともあり会社の考え方があまり好きになれなかった。が、現場の教員はベネッセと取引することで効率を上げようとした。英語の試験につても自分は「英語検定」を推奨したが英語科は「GTEC」の導入を決めた。ご存知の通り、ベネッセの勢いもすぐには形にならずGTECを選んだことを結果的に失敗になった。
ベネッセの影響を強く受けた教員たちが次に考えたのが「進路サポート」の導入である。これには自分も一教員として、またクリスチャン教師として反対した。自分の将来を決めるときに何故市販の教材に従い社会の流れに乗らなくてはならないのか理解できなかったからだ。しかし、「進路サポート」も導入されてしまった。自分が担任に返り咲いたときにこの教材を使わなくてはならなくなっていた。が、実際にはこの教材の10%ぐらいしか用いなかった。この教材で最も多く出てくる言葉が「自己実現」である。自分の目指す真の教育、預言者の学校では「自己」ではなく「神」の意思を実現させることが最大の幸福であると信じている。だからベネッセは使わなかった。使えなかった。
バプテスマのヨハネ
聖書には何人もヨハネなる人物が登場するが、イエスと同世代で親戚でもある「バプテスマのヨハネ」という人物がいる。イエスキリストが公生涯に入る前にバプテスマを授けてもらうのだが、それがバプテスマのヨハネである。「そんなことできません。恐れ多いことで・・・」と謙虚に断るヨハネの言葉をよそにイエス様はヨハネによりバプテスマを授けてもらう。ヨハネは人里離れたところで暮らし、日中は人々のところでメシアなるキリストがいらっしゃることを説いた。いわゆる露払いである。正義を曲げることのないヨハネは、ペレアの領主であるヘロデアンティパスの略奪婚を強く非難した。兄弟の妻であったヘロディアを自分の妻としてしまったことは許されない罪であると糾弾した。ヘロデはこの糾弾に心を痛めながらもヨハネを預言者として認め彼の話を聞くことを好んだ。が、結局ヘロディアの差し金によりそれに強く反対できないヘロデアンティパスはヨハネの処刑に同意してしまう。
メシアなるイエスキリストを人々に紹介し、自分の弟子であったものもヨハネからイエスの元に行ってしまい最終的には処刑されてしまう。真面目に生活している人が何故?という気持ちになってします。自分が読んでいる書物にもそのように書かれていた。
ヨハネが自分の使命に感じていた喜びは別として、彼の一生は悲しみの一生であった。彼の声は荒野よりほかのところではめったにきかれなかった。彼は孤独な身分であった。彼は自分自身の働きの結果を見ることをゆるされなかった。
各時代の希望電子版 p210. ヨハネの投獄と死
エリヤのように、天から火を呼びおろしたり、死人をよみがえらせたり、モーセのように、神のみ名によって権力の杖を使うことは、ヨハネ にゆるされなかった。彼は、救い主の来臨をさきぶれし、その現われに対して備えるように民に呼びかけるためにつかわされた。彼は、その使命を忠実に果したので、彼がイエスについて教えたことを人々が思い出した時に、彼らは、「ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」と言うことができた(ヨハネ 10:41)。主の弟子たちはみな、キリストについて、このようなあかしをたてるために召されてい るのである。
各時代の希望電子版 p210 ヨハネの投獄と死
神実現
多くの人々の心にとって、バプテスマのヨハネの運命は、深い神秘につつまれている。なぜヨハネは牢獄の中で衰弱し、死ぬがままに放っておかれたのかと彼らは質問する。われわれ人間の目では、この暗い摂理の神秘を見通すことはできない。しかしヨハネはキリストと苦難を共にしたにすぎないのだということをおぼえている時、神に対するわれわれの信頼は決して動揺させられることがない。キリストに従う者はみな犠牲の冠をかぶるのである。彼らは、かならず利己的な人々から誤解され、 サタンの激しい攻撃のまととなる。サタンの王国は、この自己犠牲の原則を滅ぼすために建てられているのであって、彼はどこでもこの原則があらわされると戦うのである。
各時代の希望電子版 p215. ヨハネの投獄と死
ヨハネは神様のご計画されたことを実現する一端を担うことができればそれで満足だったのだろう。徹底した自己否定。自我が強すぎる自分にはヨハネの生き方に憧れながらも真似することはできない。ヨハネだから送れた生涯なのだと思う。そしてイエス様から「女の生んだものの中で最も偉大な人物」と評された。今日はヨハネの生涯について読んでいたが多くのことを考えさせられ反省させられた。そして読んでいた本の最後の言葉に惹きつけられた。
もし神の子らが始めから終りを見通すことができ、神の共労者として 自分の果している栄光ある目的をみとめることができたら、彼らは、神がみちびかれる以外の道を決して選ばないであろう。天に移されたエノクも、火の車で天へのぼったエリヤも、ただ1人牢獄の中で殺されたバプテスマのヨハネより偉大であったのでもなければ、彼よりとうとばれたのでもない。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだ けではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ 1:29)。 天が人に与えることのできるすべての賜物の中で、キリストと共にその苦難にあずかることは、最も重い信任であり、最高の栄誉である。
各時代の希望電子版 p216 ヨハネの投獄と死
間口は広いけど奥が深いキリスト教、自分はまだまだであることを痛感した。
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