卒業生
このところ、何故か卒業生との交流が増えた。交流といってもそのほとんどがネット上でのことだが久しぶりに近況を聞かせていただきありがたい日々を送っている。
30年ぐらい前に受けもった生徒のことをずっと祈っている。彼女が癌を患っていることを2年前に知りそれ以降毎日祈り続けている。彼女のご両親とも親しくさせていただいていたが二人揃って重い病に苦しんでいることを知りそのためにも祈るようになった。影で密かに祈っていたのだが、先日急に卒業生の彼女から連絡があった。とても驚いたが神様が何かのご計画をされてネット上で再会させてくださったと思っている。手術直前に彼女は西洋医学から、NEWSTART健康法を用いた自然療法に切り替え手術を受けなかった。その後状態は徐々に好転し回復していった。彼女のご両親も脳腫瘍など極めて深刻な状態ではあったがお二人とも癒された。そしてこのご家族はみんなで神様を証している。こういう方々を見ていると、神様が思う存分「これでもか」と言わんばかりに働いていらっしゃるのがよくわかる。勿論癒しの無いところにも神の御業は働いているのだが、時々その働きに目が向かないことがある。
卒業生のことを思い出すたびに一人一人の名前を挙げて祈る。どうか幸せにしてください、病を癒し、必要を満たし、終末にあって信仰を回復してください、と祈る。祈るとその卒業生との色々な思い出が蘇ってくる。楽しく関わったこと、授業でのこと、ともに祈ったこと等々。更に自分が彼らに対して失礼なことをしたことがないかと反省させられる。自分が気づかなかっただけで彼らを傷つけていることは十分考えられる。だからそのことを悔い改め祈る。
ヨブの親心
今日の聖書通読箇所はヨブ記25-34章だった。ヨブにまだ災いが及ぶ前、彼がどのような生活をしていたかが紹介されている。
彼に男の子七人と女の子三人があり、 その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ヨブ記1:2-5
ヨブは子どもたちが犯しているかもしれない罪のために執り成しの祈りを献げ悔い改めの犠牲を献げていた。
ラオデキヤ
聖書の終わりに使徒ヨハネがイエス様からの啓示を受けて書いた「ヨハネの黙示録」という書物がある。7つの教会に対する励ましや譴責を含めた愛のメッセージがイエスキリストから語られる場面からスタートする。実在した小アジアにある7つの教会に宛てたメッセージであるが、これを歴史主義(他に過去主義、理想主義、未来主義などの解釈法がある)の考えで解釈すると、初代教会(原始教会)から現代までの時代に当てはめることができる。即ち
・エペソ教会 31-100 (初代教会時代)
・スミルナ教会 100-313 (迫害時代) *313年はミラノ勅令
・ペルガモ教会 313-538(世俗化時代)*538 ローマ教皇が
イタリヤとローマを掌握
・テアテラ教会 538-1517(暗黒時代)*1517は宗教改革
・サルデス教会 1517-1798(宗教改革以降)*1798はローマ教皇権の失墜
・フィラデルフィア教会 1798-1844(再臨運動時代)
*1844はエルサレム再建命令がアルタシャスタ王か
ら出てから2300の夕と朝の預言が終了する年
・ラオデキヤ教会 1844-再臨(終末時代)
この解釈法によれば現代は「ラオデキヤ教会」の時代と言える。即ちラオデキヤ教会に与えられたイエスキリストのメッセージを現代のキリスト教会に対するメッセージと受け止めることができる。
ラオデキヤは小アジアにおける貿易の中心地であり織物産業によって栄えた。またブルキア産の目薬製造地としても名声を得ていた。更にAD60年にあった大地震によってラオデキヤの周辺の年が破壊された際、ほかの都市は皇帝の支援を受けて復興したが、自尊心が高いラオデキヤの人々はその援助を断り自力で街を復興させた。またこの教会に対しては他の教会とは違って称賛の言葉が一つもない。「生ぬるい」と酷評されるその背景には地理的要因も重なっている。ラオデキヤから10km離れたヒエラポリスの温泉水から水の供給を受けていたがその水(お湯)ラオデキヤに到着する頃にははぬるくなっていた。
ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
ヨハネの黙示録3:14-22
この譴責しか与えられなかったラオデキヤの教会に対して、「悔い改めよ」とイエス様はしきりに勧める。高慢で、何も見えていないのに「自分たちは大丈夫、見えている」と大見得を切っているところがそもそも何も見えていない証拠である。地の産物である目薬をつけて見えるようになることもイエスキリストは勧めている。どうしようもないラオデキヤ教会を復興するために「火で精錬する」(1ペテロ1:7)とも言われる。燃える火の精錬は所謂試練のことである。
ラオデキヤ教会、いや自分自身にイエスキリストが語っている言葉は「悔い改めよ」である。自分が何かのビジョンを持って神様のために働くことではなく、まず「悔い改めよ」と言われる。真の悔い改めなくして神の働きに携わることはできない、と言われているのかもしれない。
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