聖書の勉強
2020年6月25日からイエスキリストの生涯について少しずつであるが勉強をしている。これまで聖書の色々な書を勉強してきたが今回は「イエスキリスト」と言う実在した方について勉強したくなった。始めてから半年以上が過ぎてやっと終わりが見えてきた。現在復活したイエスキリストについて学んでいる。十字架に掛かったイエスキリストは過越の祭(すぎこしの祭)の安息日直前(午後3時)に絶命した。安息日に遺体を十字架につけたままにしておくことはできないため、その遺体は城壁の外の谷に棄てられる筈だったがアリマタヤのヨセフと言うサンへドリンの議員が自分のために準備してある墓に葬ることを提案しそれが認められた。その墓はローマの兵士によって厳重に守られた。イエスの墓を守ると言うより墓を閉じた石にローマの封印をしたのでそれを守るために番兵が配置された。もしこの封印が破られるようなことがあれば番兵たちの命はない。番兵たちにとっても文字通り命がけであった。週のはじめ(安息日が終わった日曜日未明)にまずマグダラのマリヤが墓を見に行く。が、墓の石は脇に転がされその上に主の使いが座っているのをみた。このことを伝えるためペテロとヨハネの元に行った。その後ペテロとヨハネ、また女たちが墓を訪れた。ヨハネは墓の様子を見て予てから言っておられたイエスの言葉を思い出しイエスの復活を信じた。またひとりになったマグダラのマリヤに対してイエス様ご自身が姿を示されマリヤもイエスキリストの復活を直接見てそれを信じた。イエスキリストは世を救うためにこの地上に来たのに十字架で死んでしまった、このことはイエスキリストの人類救済計画の失敗だと主張する人たちがいる。中にはクリスチャンを自称する人の中にもそのように考える人がいると言うから驚きである。イエスキリストは人類救済のために血を流し命を失い贖いとならなければならなかった。即ちイエスキリストの「死」こそ贖い計画の成功を意味している。そして復活は悪魔の呪いである「死」に完全に勝利されたことを意味している。このイエスキリストが今も生きていると言うことを信じるのがキリスト教でありクリスチャンである。イエスキリストの生涯をここまで勉強しながら「復活したイエスキリスト」が今も生きて自分のために働いてくださっていることがどれだけありがたいことなのかを改めて学ぶことができた。もしもこの学びがなければ、今日の出来事を冷静に受け止めることはできなかったと思う。
今日の出来事
今朝、離れて暮らす妻から速達が届いた。普段は子どもの写真が送られてくるが今日は封筒の厚みや感触が少し違った。咄嗟に嫌な予感がした。今日は写真ではなく便箋8枚に及ぶ手紙だった。詳しい内容は省くが要するに今後家族が揃って暮らすことはない、と言う内容だった。何度も読み返したが読み間違いでは無かった。このことをずっと祈って来たのにその祈りの答えがこの手紙の内容なのか、と落胆した。戻ってくることのない過去を振り返って涙が溢れて来た。自分の大切な人が幸せになることが、自分に対する存在の否定であったらどうしたら良いのだろうか。答えはわからないが「やはり自分という存在が人を不幸にしている」という自覚が強くなりその存在を消してしまいたいと思うようになった。人を不幸にしながら生き続けることはとても厳しいことだからだ。これからどうするべきか、もう少しゆっくり考え何よりも祈るべきだと思っている。もしも、復活したイエスキリストの学びをしていなかったら咄嗟に変な行動に出ていたかもしれない。
エレン・ホワイトが書いた書物より
まだ先のことは分からないが、今この時点ではっきり言えることは復活したイエスキリストが自分と共にいてくださっていること。そして妻のことも深く愛して共にいてくださっていること。これは確実なことであり自分の確信である。一度「イエスキリストを信じる」と決心したので、自分の祈りがその通りに応えられなかったと言って信仰を放棄することはできない。いつまで「生きよう」という気持ちを持続できるかは分からないが、乗りかかった船だから最期まで「復活したイエスキリスト」を信じてみようと思っている。以前の投稿で何度かエレン・ホワイトという人の文を紹介したが今日も自分を励ますために彼女の著作より文を引用したい。
神は私たちが傷つき破れた心を持って
無言の悲しみに圧倒されるままには
放置しておかれません。
神は私たちに目を上げて、
神の優しいお顔を見るように望まれます。
聖なる救い主は涙で目がくもって、
主を見分けられない多くの者の
そばに立たれます。
主は私たちの手をにぎり
単純な信仰をもって
主を見るようにと、
また私たちが主に導いて
いただきたいと
願うようになることを
望んでおられます。
主の御心は私たちの
苦しみ、悲しみ、
試練に向かって開かれています。
主は永遠の愛をもって私たちを愛し、
私たちを慈愛をもって囲まれます。
私たちは主のことを心に思い続け
一日中その慈愛を
瞑想する事ができます。
主は魂を日毎の
悲しみと困惑の上に
引き上げ平和の国に
入れられるのです。
エレン・ホワイト(山上の説教 P15、16)