Y牧師
昨日、夕方にY牧師が急遽奥様とご一緒に自分の働く職場に来られることになった。勿論私に会うために来られるわけではなく他のご用があっての来訪であるが急に晴れ晴れとした気持ちになった。かつて教育現場にいた時にチャプレンとしてご奉仕されていた牧師先生である。この先生と共に各地の演奏旅行やその他のミニストリーを企画しまたそれを実行してきた。クラシックギターやハーモニカがお上手で音楽にも精通しておられるが何と言っても聖書に関する知識と造詣の深さには圧倒される。堪能な語学力を以って今でも翻訳のお仕事にも携わっておられる。
職場(医院と介護施設)をご案内した後、長々と話し込んでしまった。今日も駅までお送りしながらずっと昔のことや今後のビジョンについて話した。いつも神様を見上げ、神様を真剣にあてにしていらっしゃる方とお話しすることは本当に力が湧いてくる。
信仰の友(といったら牧師先生に申し訳ないが)と一緒にいられることの心地よさを感じながら9時59分の奥羽本線を見送った。
背中を押す
職場にはあと1週間ほど出勤して退職となる。が、毎日神様との格闘は続いている。いよいよ引っ越すのに次の仕事は全く決まっていない。収入源がなければ子どもの学費も支払えない。失業保険がいつもらえるのか分からないが、もらえても生活するのに十分な金額ではない。やはりこのまま現職を続けた方が良いのかもしれないと何度も思った。
神様、ここまで導いてくださったのですから「祝福はこれで終わり」なんて仰らないはずです。これからどうしていけば良いのか全くわかりません。神様、私はアブラハムではありません。どうか道を示し保証を与えてください。
こんなことを祈りながら絶えず神様からの示しを待っている。
そんな自分に対して今日は背中を押してくれるような文章にであった。
家族を食べさせなければならないというプレッシャーのために、私たちはたびたび、私たちが働くのは単純に収入を得るためであると考えます。 しかしク リスチャンとして、私たちはまた、イエスが彼に従う者たちすべてに与えられ た大宣教命令の、 私たちの分を果たしているのです。 マルコ 16:15にも見られ るこの命令を引用した後で、エレン・G・ホワイトは次のように書いています。 「だれでもみな字義通りの伝道者や宣教師になるように要求されているというのではない。それはわれわれがみなキリストと共に働く者となって 『よろこび のおとずれ』を同胞に伝えなくてはならないことを意味している。偉い人にも、 凡庸な人にも、学問のある者にも無知な者にも、老人にも青年にも、すべての 人にこの命令は与えられているのである」 (『教育』 312ページ)。
生活のために自分や自分に与えられたビジョンを安売りすべきではないことを教えられた。
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