ルーティーン

祈り

数週間前から牧師先生、そして同じ職場の同僚と3人で早朝の「祈りの組」をはじめLINEで行なっている。毎朝同じ時間に集合して順番に祈り始める。祈りの前に近況や聞かれた祈りについて証をすることもある。2人の信仰に励まされながら熱心に祈ることができ祝福された時間を過ごしている。元々この「祈りの組」は医院長先生の暴走が止まること、土地の売買や金品をチラつかせて患者さんをバプテスマに導くことをやめてもらうことを目的としてはじめた。またこの教団の信徒でありながら教団の教理に反対する本を出版し今も自分の考えが正しいことを世に知ってもらうための活動が収束することを祈っている。しかし、自分がこの祈りの組でまず最初に、そしてかなりの時間を使って祈ることは「悔い改め」である。教会、教団に力がなくなっているのは、神様が私たちを真の悔い改めに導いているからだと思っている。悔い改めはまずしなくてはならない最優先課題だと思っている。そして病院や教会のことを祈り救霊のために祈る。そしてそれぞれの家族について祈る。「自分たちの信仰を試すために試練にあわせるとき、どうか子どもを使わないでください」と真剣に祈る。子どもをだされてしまったら、弱すぎる信仰しか持っていない自分はすぐにぐらついてしまう。そして家族、故郷の親、親族のため特に救霊のために祈る。

今日も同じように祈っていたのだが「神様は本当にこの祈りをきてくださっているのだろうか?」と疑問を持ってしまい、ついつい大きな声で

「私は毎日同じ祈りをしています。しかしルーティーンとして、習慣だから、同じ祈りをささげているわけではありません。家族、親族の救いは切実な問題なのです。高齢の親もいます。残り時間が少ないのです。今まで色々な努力をしてきました。でもダメだったのです。自分でできれば祈っていません。自分にはどうしようもないから神様に祈っているのです。なのに、なぜこの祈りに答えてくださらないのですか。祈り方が間違っているのであれば教えてください。あなたの御心と私の祈りは完全に一致していると信じています。何故助けてくださらないのですか。なぜ親族、親、兄弟をイエス様に導いてくださらないのですか」

と言ってしまった。我に返り、自分1人の祈りでないことを思い出し少し恥ずかしくなった。

友人のこと

今日は多くの方々からメッセージをいただいた。その中にかつての教師仲間の1人が長文のメールを送ってくれた。何でもお父様がガンになったとのこと。うちの父と同い年なので92歳。このところ何度も実家に戻りお父様に会いに行っているとのことだった。今は寝ていることが多くなってきていると教えてくれた。友人とそのお父様のためにも毎日お祈りしないといけない。早速祈りのノートを書き換えた。祈りが本当に神様に届いているのか。そんな不安な気持ちになるが、それでも祈ることしかできないのでまた祈る。

一つの文章を見つけた。この文を読んで、もう一度信じて祈ってみよう。

悩み苦しみに会うものはすべて、神を呼び求めるとよい。冷酷な人々 に頼ることをしないで、創造主に、あなたの求めを申し上げなさい。砕 けた心をもって、神に来るものは、だれ1人しりぞけられることはない。 心からの祈りは、決して消えてしまうものではない。天の聖歌隊の賛美を受けておられる神は、弱々しい人間の叫びをも聞かれる。わたしたちが、部屋の中で心の願いを申し上げたり、あるいは、道を歩きながら祈ったりすると、その言葉は宇宙の王のみ座にまで達する。それはだれの耳にも聞こえないであろうが、消え去ってしまったり、忙しい仕事に取 りまぎれて、なくなったりしない。何も、人の心の願いを消し去ることはできない。祈りは街頭の騒音や群衆の混雑をこえて、天の宮廷へと上 っていく。わたしたちが語りかけているのは、神である。そして、神は、 わたしたちの祈りを聞かれるのである。
キリストの実物教訓 p121

第10回「回復の物語」講師:稲田 豊

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