台無し 

傲慢

サッカーをしていた時に、自分が任されるポジションがいくつかあった。今では考えられないが足が速く長距離が得意だった。またパスのコースとタイミングの正確性からサイドから攻撃を仕掛け最終的にポイントゲッターにボールを渡してゴールをアシストする役割を任されることが殆どだった。身長も低くジャンプ力も乏しいため空中戦には弱い。だからセンターはできなかった。勿論自分も左サイドからのボールをシュートすることはあったし得点もしたが、センターでは無い。いかに正確なラストボールをセンターに出せるかが自分を評価する物差しだった。だから一度もポイントゲッターを羨ましいと思ったことはない。しかしもしもアシスト役の自分がボールを支配してセンターにパスを出さず自分でゴールするプレーを頻繁に行うようになったらどうだろう。仮に得点できたとしてもチームの士気は下がる。

野球でどうしても1点が欲しい場面。打順は1番からの上位打線。1番が出塁しノーアウトで2番の打順。自分が2番である。監督からのサインは勿論バント。得点圏にランナーを進めて3,4番の主砲にバトンタッチするのが2番の役目だ。しかし、監督からのサインを無視してヒッティングに変更したらどうだろうか。芯にあたった気がするも6-4-3のダブルプレーで2アウト。もはや敵に味方するスパイ行為である。万が一センター前に飛ばすことができて前のランナーを3塁まで進めることができたとしても決して褒められることはないだろう。命令を無視したのだから。

過去

自分の過去を振り返る時に前述のような身勝手な選手であった場面をたくさん思い出す。そして「もしもあの時に自分が余計なことをしなければあの人はイエス様に導かれていたのではないか」と考えてしまう。しかも、イエス様のために自分なりの手段をとったのではない。自分のために、である。自分が目立つために、自分が評価されるために、クリスチャンアドバンスコースにいる自分のことを認めてくれるように、である。

自分がどれほどイエス様の働きを妨害してきたのかがひとつひとつ思い出され本当に悲しい気持ちになる。

叱責の言葉

そのような気持ちになる時に次の言葉が与えられた。

まさにここに出てくる「子どもたちがイエス様のもとにくるのを邪魔した」人物が自分である。

イエスが弟子たちに、子供たちがわたしのもとにくるのをとどめるなと言われた時、主は各時代のキリストに従う者たちー教会の役員に、牧師に、助手たちに、すべてのクリスチャンに語りかけておられた。イエスは子供たちをひきよせ、彼らをわたしのところにこさせなさいとお命じになる。それはあたかも、もしあなたがたがじゃまをしなかったら、子供たちはわたしのもとに来るのだと言っておられるかのようである。キリストに似ないあなたの品性によって、イエスについて誤った印象を与えてはならない。あなたの冷淡さときびしさのために、子供たちをイエスからひき離してはならない。もしあなたが天国にいるなら天国は楽しいところではないと、彼らに思わせてはならない。宗教というものは子供たちの理解できないものであるかのように語ったり、子供たちが幼い時にキリストを受け入れることは期待できないかのようにふるまってはならない。キリストの宗教は陰気な宗教だとか、救い主のみもとに行くためには、人生を楽しいものにするようなものはすべて捨てなくてはならないなどという誤った印象を子供たちに与えてはならない。
各時代の希望電子版p539,540  子供達を祝福される

天沼教会2022年11月26日礼拝「幼子のように」東 清志天沼教会副牧師

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