安息日

聖書研究

ここ2年ぐらい、毎日欠かさず聖書の勉強をしてきた。4日ほど前にヨブ記の勉強が終わった。次はどこの勉強をしようかと思っていたがなかなか良いアイデアが浮かばない。本来は聖書の勉強をする必要を感じているが、現在聖書の勉強とは別に聖書通読を毎日10章ずつ行なっているので、一度聖書以外の書物を勉強してみるのも良いかもしれないと思った。そういえば最近Facebookのどなたかの投稿に「サタンは『初代文集』をキリスト者に読ませたく無いと懸命に働いている。サタンはこの書物からキリスト者を遠ざけたいと心から願っている」という文章がありそれを読んだ。そしてその時から「ならばサタンを極限まで困らせてやろう」と考え初代文集を読み始めていたところだった。そうだ、今度の聖書研究のテーマは、聖書では無いけど「初代文集」にしよう、と思った。私の投稿によく引用文を掲載しているがその著者がエレン・ホワイトという女性クリスチャンである。19世紀の再臨運動前にメソジストの信仰を受け入れその後再臨運動に積極的に参加する様になった方である。使徒ヨハネはパトモス島で神様からの啓示を受けそれを「ヨハネの黙示録」という形で著した。即ちヨハネは使徒であると同時に預言者でもあった。聖書には預言者がたくさん出てくるがヨハネ以降の預言者については記録がない。しかし、このエレンホワイトという方もまた預言者である。彼女は聖霊に導かれ幻を見せられる。幻の中で映像と神様の声を通して、神様が人類に示そうとしている真理を見せられるのである。そしてそれを書き留め書物に著した。「初代文集」もその中の一つである。彼女が幻を見せられる経験のうち比較的初期のもの(年齢的には彼女が17歳ごろから幻を見る様になった)を掲載しているのがこの「初代文集」である。預言者とか幻という話が出てくること自体、なんとなく怪しい宗教団体なのでは無いかと思われてしまいそうだが、彼女の著作で聖書に矛盾する記述があるなら示していただきたい。彼女のみた幻は聖書の内容ち矛盾することなく、また私が所属するキリスト教教団も怪しい教祖を立てお金を貪る様なものでは無い。むしろお金がなくて四苦八苦している貧乏教団である。そんなエレン・ホワイトの「初代文集」を学んでいくうちに興味深い記述がたくさん出てくる。今日読んだところは安息日に関することが多く記述されていた。以下「初代文集」の抜粋である。

わたしは、至聖所で箱を見た。それは上も横も純金でおおわれていた。箱の両側に美しいケルブが立っていて、箱の上にその翼を広げていた。彼らは互いに向き合い、下の方を見つめていた。天使たちの間に黄金の香炉があった。箱の上の方の天使たちが立っている所に、非常に明るい栄光が輝いていて、それは神がおられるみ座のように見えた。イエスは箱のそばに立っておられた。そして、聖徒たちの祈りが彼の所にのぼってくると、香炉の中の香が煙って、彼は香の煙とともに彼らの祈りを彼の父にささげられるのであった。箱の中には、マナの入った黄金のつぼと、芽が出たアロンの杖と、書物のようにたたまれた石の板とがあった。イエスはそれを開かれた。そしてわたしは、そこに神の指で書かれた十戒を見た。1枚の板には4条、もう1枚の板には6条が書かれていた。最初の板の4条は、他の6条よりももっと明るく輝いていた。しかし、第4条の安息日の戒めは、他のどの戒めよりも輝いていた。というのは、安息日は、神の聖なるみ名をあがめて守るようにと聖別されたものだからである。聖安息日の戒めは、光り輝いていて、そのまわりに栄光の輪があった。
エレン・ホワイト初代文集

安息日の戒めが、十字架につけられたのではないことをわたしは見た。もしそうであれば、他の9つの戒めも同様で、われわれは第4条を破るのと同じように、それらをみな勝手に破ってもよいことになる。わたしは、神が安息日を変更されなかったのを見た。なぜなら、神は変わることのない方だからである。しかし、法王が、それを週の7日目から第1日に変えたのである。彼は、時と律法とを変えようとするのであった。もし神が安息日を第7日目から第1日目に変えられたのであれば、神は、今天の神殿の至聖所の箱の中にある石の板に書かれた安息日の戒めを変更されたはずで、そこには、第1日があなたの神、主の安息日であると書かれているはずである。しかし、それは、神の指によって石の板に書かれて、シナイ山でモーセに与えられた時と同じに、「7日目は、あなたの神、主の安息である」と書かれているのをわたしは見た。わたしは聖安息日が、今も、また将来も、神の真のイスラエルと未信者との間を分け隔てる壁であり、また、安息日は、神を待ち望む神の愛する聖徒たちの心を結合させる大きな論点であることを見た。わたしは、神が、安息日を理解してもいなければ守ってもいない子供たちを持っておられるのを見た。彼らはまだ安息日についての光を拒んではいなかった。悩みの時の開始にあたって、われわれが出ていってもっと徹底的に安息日を宣べ伝えた時、われわれは聖霊に満たされた。このことは諸教会と名目的再臨信徒たち(付録参照)を激怒させた。彼らは安息日の真理に反論することができなかったからである。そして、この時、神に選ばれた者たちはみな、われわれが真理を持っていることをはっきりと知って、出てきて、われわれと一緒に迫害に耐えた。わたしは、地上に剣、ききん、疫病、大混乱が起こるのを見た。悪人たちは、われわれが彼らの上に災害をもたらしたものと考えた。そして彼らは立ち上がって、地上からわれわれを滅ぼし去ろうと相談した。彼らは、そうすれば災害がやむものと考えたのである。
エレン・ホワイト初代文集

安息日

真のキリストにつくか、あるいはサタンにつくかはこの安息日で振り分けられるという。間も無くこの世は「日曜休業令」なるものが発布され、日曜日を礼拝日として休まないものはものの売り買いができなくなる時代に突入する。「いや、うちは無神論だから関係ない」とはならないのである。神につくか、サタンにつくかの二者択一である。それ以外の選択肢はない。勿論両者につくこともできない。どちらかの一択である。自分は安息日(土曜日)礼拝者として少数派に入る。そしてものの売り買いができなくなるので生活にも困窮する様になるだろう。腕に覚えのある釣りをして若干の食料を得ることはできるかもしれないがそれでも限界はくるだろう。サタンに側につく大多数の人たちに追いかけられ殺されるかもしれない。自分が死ぬのは全く問題ないが家族がこのことで苦しみ迫害されることは耐えられない。終わりの時代にどの様な信仰を持つのか、自分でも不安だらけだ。ただ、今まで大変お世話になっている神様に背を向けることは決してできない。ここまで愛情を注いでくださった神様を敵に回すくらいなら死んだほうがマシである。決して多数派ではない「安息日を守り真の神を選ぶ人」が1人でも多く仲間に加わることを切望するものである。キリストの十字架、そこで流された血潮に人を救う力があると信じている真面目なキリスト者はたくさんいる。しかし彼らのほとんどが安息日を選んでいない。キリストの十字架を信じる人々全てが真の神様を礼拝する安息日を選ぶ様になることを心から願うものである。日本で比較的大きな教会はいくつかある。大和カルバリーチャペルの大川先生がある日突然、「日曜日の礼拝はこれが最後です。来週からは土曜日を安息日として礼拝することにします。皆さん、曜日を間違えないでください。日曜日にきても教会の扉はしまっています」という発表をしてくれないかと祈っている。中川健一先生が「私は十戒が廃された、と言ってきましたがそれは誤りでした。十戒は新約時代の今でも有効です。だから安息日土曜日に礼拝する必要があります。恵比寿の集会も来週から土曜日に礼拝形式で行います。日曜日は聖書の勉強会、講解メッセージです。土曜日が礼拝になりますから曜日を間違えないで集まってください」とアナウンスしてくれないかと祈っている。各地の教会が安息日を礼拝日として守る日が来ることを願うものである。

聖書Q&A_Vol.4「安息日は十字架で廃されたのではないか?」

 

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