犠牲

終戦記念日

77回目の終戦記念日を迎えた。戦争の悲惨さを語れる方々が年々減っていくことに一抹の不安を覚える。両親は戦争を経験している。戦時下にあってどのように信仰を守り抜いたのか、牧師でも無いのに一信徒である病床の祖父が特高警察につかまり拘留されたこと、東京大空襲で荒川土手に逃げたこと、そして間一髪のところで神様が守ってくださったことを沢山聴かされた。終戦の玉音放送の際、父は「ふざけるな」という気持ちもあって釣りに行った、と話してくれた。国のために命を捧げることが尊いこととされ、出兵できなければ世間から恥呼ばわりされた時代。それを経験した方々が、愚かな戦争を繰り返してはいけないと、戦争を知らない世代に伝えてくれた。しかし、そのような警告にも拘らず世界はまた戦争に舵を切ろうとしている。

ある写真

長崎の原爆が投下されてからしばらくして撮られた写真である。「焼き場に立つ少年」という題の写真で米軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏が撮影した。どうみてもうちの次男の年齢である。その子が、なくなった弟さんをおぶって焼き場に並んでいる。戦争とはこういうことなのだ。自分も経験していないのでものを言える立場ではないが、こんなことを繰り返してはいけない。絶対にいけない。

犠牲

現在、一人暮らしをしているので誰かにお世話になったり助けてもらうことはあまりない。炊事、洗濯、掃除等々すべて自分でやらなくてはならない。そんなことをしていると、「自分の力で生きている」と勘違いしてしまうことがある。決してそんなことはない。絶えずどなたかのお世話になり、どなたかの祈りによって支えられ生きている。

戦争に巻き込まれ、狂った価値観が正しいことと洗脳されて生き、そしてなくなった方々の犠牲に上に今の日本があることは確かだし、生き残ってこの日本を復興させた方々の功績によって生かされている。そして何よりも、2000年前の十字架上での犠牲があったからこそ今の自分が存在している。

終戦記念日に思うことは、決して思いあがってはいけないということ、そしてイエス様の十字架の犠牲である。

けがれのない神のみ子は、その肉体はむち打ちで裂け、しばしば祝福 のうちにさし出されたその手は横木に釘づけられ、愛の奉仕に疲れを知 らなかったその足は木にうちつけられ、王の頭はいばらの冠で刺され、 ふるえる唇は苦悩の叫びにかたどられて、十字架にかかっておられた。 しかもイエスがしのばれたすべてのこと― その頭と手と足から流れた 血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされた時に その魂を満たした言いようのない苦悩、― それらは人類の子らの1人 1人に向かって、神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのは あなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれ るのはあなたのためであると語っている。
各時代の希望電子版 p805 カルバリー

契約の虹#33 じゅうじかよりさけびきこゆ

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