サムソン

士師記16章

昨日の祈祷会(少し変則的ではあったが)で士師記16章を学んだ。少し前から「サムソン」なる人物について記述されているが、この16章でサムソンは死んでしまう。ペリシテ人との確執でお互いに何かの機会を得て滅ぼしたいと思っている。しかし不思議なことにサムソンはこの敵国であるペリシテ人女性を気に入ってしまう。結婚相手にしようと思っていた彼女に裏切られ(その父親が別の男性に嫁がせてしまった)この女性との結婚は叶わなかった。女性に気をつけなくてはいけないのだが懲りないサムソンは、また別の女に好意を寄せてしまう。結果的にこの思いが仇となる。彼女に騙されサムソンの怪力が何に由来するものなのかを喋ってしまうのである。サムソンはナジル人であり、3つの誓願をたてていた。誓願の一つである頭(髪の毛)にカミソリをあてないこと、それを守っているために怪力が与えられていることを好意を寄せた女性「デリラ」に喋ってしまう。これを聞いたデリラがその髪の毛を剃ってしまう。力を失ったサムソンはペリシテ人に捕まり眼がえぐり取られた状態で獄に入れられた。いよいよサムソンの終わりである。

サムソンの祈り

サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。
士師記16:28

サムソンは自分の命の最期をもう一度神様のために用いていただけないか嘆願するのである。この時サムソンの髪の毛は伸びていた。

サムソンのこの祈りはきかれ、もう一度力を得る。そして…

そしてサムソンは、その家をささえている二つの中柱の一つを右の手に、一つを左の手にかかえて、身をそれに寄せ、「わたしはペリシテびとと共に死のう」と言って、力をこめて身をかがめると、家はその中にいた君たちと、すべての民の上に倒れた。こうしてサムソンが死ぬときに殺したものは、生きているときに殺したものよりも多かった。
士師記16:29,30

力の源

何故、サムソンが再び力を得ることができたのか。ひとえに神様の憐れみによりその祈りがこたえられたことによる。確かにナジル人としてのあかし通り髪の毛も伸びて来てはいたが、髪の毛に力があったわけではない。髪の毛をそったときに神様が彼を離れたことが明記されている。

彼は主が自分を去られたことを知らなかった。
士師記16:20

この場面を読むとイエス様にすがった一人の女性のことを思い出す。

「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。」
マルコによる福音書 5:25-27 口語訳

言うまでもなく力の源は「髪の毛」でもなければ「イエスの衣」でもない。イエス様ご自身に力がある。至極当たり前のことなのだが、それを忘れている自分に気づかされる。

それにしても、サムソンの生涯を聖書から学ぶ時、「何故サムソンが士師に選ばれたのか」と疑問を持ってしまう。士師として働く期間が20年と聖書には記されているが、この期間は決して短い方ではない。

オテニエル40年、オホデ80年(最長)、デボラ40年、ギデオン40年とサムソンよりも在位期間が長い士師もいるがその他はほぼ同じぐらいかそれよりも短い。聖書には、多くの章をさいて描かれる人物もいるが、「生まれた、死んだ」程度の記述で終わっている人も多い。しかし、その短い記録しか残っていない一人一人に対しても神様のご計画があり、その人がこの世に一人しかいないかの如く愛された。サムソンもその一人である。女性に弱いサムソン、怪力にものをいわせて自由奔放に生きているようにみえるサムソン。しかし、神様はこのサムソンが可愛くて仕方なかったのだろう。

聖書研究ガイド21年4期13課

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