二週間
金曜日が来ると突然寂しさと空虚感が襲って来る。それ以外の日にも寂しさと空虚感はあるのだが金曜日は特別である。
2023年が明けて2日、母の容体が悪くなったとの知らせを受けて病院に駆けつけた。その後、少し安定したのでこのまま回復することを日々祈り続けた。虫の良い話だが、昔から「自分の家族は生きてイエス様のご再臨を迎えられますように」と祈ってきた。今まで何度も奇跡的な生還を果たした母だから今回も癒されると信じて祈り続けた。が、ゆっくりだが容体が悪くなっていって。実は今回の帰省は母が危ないから、ではなく父を実家で預かるためのいつもの帰省だった。だから礼服も持参していなかったし何より心の準備もしていなかった。徐々にその時が近づいていることを何となく悟り1月5日、礼服を買いに出かけた。そして裾上げが翌6日の10時以降の仕上がりとのことだったので6日は9時半に荻窪を出発して吉祥寺に向かった。裾上げが終わった商品を受け取ったタイミングで姉から連絡がありすぐに戻るように言われた。その後父と二人で正午前に病室に行き、それからおよそ1時間半後に母は亡くなった。診断書の時刻は13時39分だが実際には13時6分の段階で呼吸は止まっていた。
あれから二週間。この間のことを点では記憶しているがその記憶が繋がらない。その瞬間瞬間をただ流れに任せて生きていただけ、というのが正直なところである。毎日「24時間前はまだお母さんが生きていた」「1週間前はまだお母さんがいた」と少し前と全く違ってしまった現実をなかなか受け入れることができないでいる。
矛盾
母が亡くなって、まず思ったのがイエス様の再臨のこと。悲しみの淵にいる今こそイエス様に来ていただきたいと心の底から思った。告別式の最中にも何度となく「今イエス様がきてくださらないかな」と思った。ご再臨、永遠の命を心の底から渇望するようになった。
そしてもうひとつの思い。それはサタンに対する憎悪の念。こいつがいたからのこ地球に「死」が入り込んでしまった。サタンを心の底から憎いと思った。今自分の目の前にサタンが肉体をもって現れたなら間違いなく刺し違えるだろう。本当に憎い。こいつのせいで愛する母と一時的とはいえ別れなくてはならなかったのだから。
そんな憎いサタンなのだが、一方でサタンの巻いた罠、餌に魅力を感じてしまう。サタンを憎みながらこの世での幸せを願い寂しさを埋めるためにこの世的な幸福を求めようとしている自分に気づく。サタンを憎みながら愛している、自己矛盾である。
間もなく
もう少しでイエス様が来られる。それまではこの地上で忍耐しないといけない。その忍耐の時間をできればイエス様を紹介する働きに使いたい。イエス様が間も無く来られることを知らない、信じない人のそばにいて何かの役に立ちたいと思っている。
父と妙正寺公園を散歩している時の会話を思い出す。あまりにも悲しくて耐えきれず父に「再臨はいつかな?」と聞いた時に「いつかは分からないけれど、そんなに先ではないと思うよ。今年なのか、来年なのか。何れにしても5年も10年も先ではないと思うよ」
イエス様のご再臨こそ今の自分に与えられた希望である。
贖われた群衆の前には、聖都がある。イエスは、真珠の門を広くあけ られる。そして、真理を守ってきた諸国の民がその中へ入る。そこに彼 らは、神のパラダイス、すなわちアダムが罪を犯す前のふるさとを見る。 その時、人間の耳が今まで聞いたどんな音楽よりも豊かな美しいあの声 が、「あなたがたのたたかいは終わった。」「わたしの父に祝福された人た ちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されているみ国を受 けつぎなさい」と言われる。
各時代の大争闘電子版p647 神の民の救出
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