自己実現
良いことを考えそれを望み、それが叶うよう努力する。できるだけ良い望みを持てるように良いものをたくさんみて良い教育を受ける。自分の中にある思いを具現化して行く自己実現は多くの人の理想的な生き方であり目指すべき方向である。教員時代、この言葉を何度も並べる教材をたくさんみてきた。若者にとって自己実現はとても大切なことである。
自己放棄
放棄、と言葉に否定的な意味が含まれるので誤解されやすいがキリスト教の世界ではこの言葉をよく使う。もう少し別な言い方で「自己に死ぬ」などと言うことが多い。要するに自分の欲求や考えをすてて神様のご意思を自分の行いとすることを言う。自分を放棄することについてイエス様は一粒の麦をたとえにしてお話しされた。
24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 25自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。 26もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
ヨハネによる福音書12:24-26
自己放棄の難しさ
昨日、自己否定についてゆっくり考えてみた。そしてこれが非常に難しいことであると気づいた。
例えば自分の無力さを感じて必死に神様に祈る。そして神様からのお助けをいただきたく聖書を毎日定期的に通読し、キリスト教書籍を読むことも怠らない。毎日長い祈りをささげてとにかく神様からの助けを請い願う。これ自体は何ら悪いことではなく、むしろクリスチャンのあるべき姿だと思う。しかし、これをずっと続けていくうちに何度も何度も聖書を通読する行為が自分を助け、清めると勘違いしてしまう可能性もある。最初は神様にすがる以外の道がなく必死にみ言葉から力をいただいていたが、だんだんと通読する行為に力があるとすりかえられてしまうことがある。力は聖書の言葉、神様の言葉にあるのに、それを求める自分の行為に依存することが「自己放棄できていない状態」であることに気づいた。紙一重だし周りの人にはその違いは分からない。もしかしたら自分自身も分からないのかも知れない。
人は「見たものを頼る」と学んだ。「見たもの」よって生じた「自分の考え」に頼り、そしてその考えによって起こる「感情」に頼って生きる、らしい。
この奥深い「自己放棄」を日々実践したい。
もし、わたしたちが、神のご用のために自分をささげているならば、 神は、なんの備えもなさらないような所へ、わたしたちを置かれること はない。わたしたちがどのような境遇にあっても、導き手であられる主 がわたしたちをお導きくださる。どんな問題であっても主は確実な相談 相手である。また、どんな悲しみ、死別のなげき寂しさの中にあっても、 同情にあふれた友なるイエスがわたしたちとともにおられる。無知のた めに足を踏みすべらすようなことがあったとしても、キリストはわたし たちを、おすてにはならない。「わたしは道であり、真理であり、命であ る」と言われる主のみ声が、はっきりと聞こえてくる(ヨハネ 14:6)。 「彼は乏しい者をその呼ばわる時に救い、貧しい者と、助けなき者とを 救う」(詩篇 72:12)。
キリストの実物教訓 p120 祈りの能力
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