太宰治という人
太宰治の名を知らない人はあまりいないと思う。その作品を読んだことはなくても名前は有名なので広く知れ渡っている。先日、太宰治の生家である「斜陽館」に行った。五所川原にある。太宰治は明治の大地主対馬源右衛門が建築した入母屋作りの建物で明治40年に落成した。1階は11室278坪、2階は8室116坪の大豪邸である。宅地の総面積は680坪というから驚くべき広さである。太宰はこの家を「苦悩の年鑑」の中で「この父はひどく大きい家を建てた。風情も何もない、ただ大きいのである」と記している。この邸宅は戦後津島家が手放し昭和25年から旅館「斜陽館」として町の観光名所となり多くのファンが集まる場所となった。その後平成8年に旧金木町が買い取り旅館「斜陽館」は46年の歴史に幕を下ろした。とにかく絢爛豪華で一度は住んでみたくなるような邸宅であった。太宰治の愛用していた二重回しもそのままかけられており今でもそこに住んでいるのではないかと錯覚するほどであった。
年譜
・1909年 誕生
・1916年 7歳 金木第一尋常小学校に入学、読書好きで成績はいつも優秀であった。
・1922年 13歳 明治高等小学校1年間通学した。成績は抜群だが腕白であった。
・1923年 14歳 県立青森中学校に入学
・1925年 16歳 文筆活動が活発になる。「最後の太閤」
・1927年 18歳 官立弘前高等学校文科甲類に入学。
・1930年 21歳 東京帝国大学仏文科に入学。
・1939年 30歳 井伏鱒二夫妻の媒酌で石原美知子と結婚。
・1941年 32歳 長女園子誕生。
・1942年 33歳 母夕子重体で妻と長女を伴って帰郷。
・1944年 35歳 長男正樹誕生(1960年死去)。小山書店から「新風土記」の一冊として「津軽」の執筆を依頼される。そのため津軽地方を旅行した。
・1945年 36歳 妻子を連れて津軽に疎開することになり金木の生家にたどり着く。
・1947年 38歳 次女里子誕生。
・1948年 39歳 愛人の1人である山崎富栄と共に玉川上水に入水し世を去る。遺体は1週間後6月19日の誕生日に発見される。
キリスト教の影響
太宰治はクリスチャンからの影響を受けている。パビナール中毒になりひどい時は1日に50本も打つことがあった。そのため東京の武蔵野病院に入院した。奇しくもこの病院は自分の実家のすぐそばで、小さい頃は「きちがい病院」(今では絶対に行ってはいけない言葉であるが)と言われていた。その病院に入院中に同じく入院患者の斎藤医師から聖書を借り、入院中は毎日聖書だけを読んでいたという。マタイによる福音書をずっと読み続けたと言われている。
Human Lostより
聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。
この文章は文語訳聖書の引用をもって終えている。
汝(なんじ)らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。天にいます汝らの父の子とならん為(ため)なり。天の父はその陽(ひ)を悪しき者のうえにも、善き者のうえにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給(たま)うなり。なんじら己(おのれ)を愛する者を愛すとも何の報(むくい)をか得(う)べき、取税人も然(しか)するにあらずや。兄弟にのみ挨拶(あいさつ)すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。然(さ)らば汝らの天の父の全きが如(ごと)く、汝らもまた、全(まった)かれ。
折角聖書を読んでいたのに自ら命を絶ってしまったことは誠に残念である。聖書には確かに厳しい規範が書かれているが、しかしそれらを犯してしまう人間の弱さを誰よりも理解しているイエスキリストが代わりに死ぬことによって全ての罪が許されていることを教えるのがキリスト教である。太宰治が真の神様と出会い、キリストの赦しを実感することができたらどれだけ良かったであろう。そしてもしそうだったら彼のその後の作品はどのようなものになっていたのだろう。斜陽館に行くことで、太宰治を偲ぶとともにキリスト教の本質を考えさせられる機会となった。
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