安倍元首相

突然

遊説中の安倍首相を凶弾が襲うという報道を受け非常に驚いた。今日は休日出勤のため朝から聖書の勉強をしていた。いつも読む本や聖書研究ガイドが共に「人の裁き」に関する内容だったので反省している最中であった。携帯に突然安倍首相のニュースが飛び込んできた。詳しい状況は分からないが心肺停止との報道もあるのでとにかく命が守られることを心から祈っている。また、自分の人生がいつどうなるかが分からない状況の中で何をすべきかを真剣に考えさせられた

警告

キリストがいちじくの木をのろわれた行為は、弟子たちを驚かせた。 それはキリストの方法やみわざにふさわしくないものに思えた。これまでしばしば彼らは、わたしは世を罪に定めるためではなくわたしを通して世が救われるためにきたのだと、キリストが宣言されるのをきいた。 彼らは、「人の子は人の生命を滅ぼすためではなく、これを救うためにき たのである」と言われたキリストのことばを思い出した(ルカ 9:56・ 英語訳聖書)。これまでキリストのふしぎなみわざは、決して滅ぼすため ではなく、回復するためになされた。弟子たちは回復してくださるお方、 いやしてくださるお方としてしかキリストを知らなかった。しかしこの 行為だけは目立っていた。その目的は何であろうと、彼らはたずねた。

「神はいつくしみを喜ばれ」「主なる神は言われる、わたしは生きて いる。わたしは悪人の死を喜ばない」(ミカ 7:18、エゼキエル 33: 11)。神にとって滅ぼすわざと刑罰の宣言とは、「異なったものである」 (イザヤ 28:21)。しかし神が未来の幕を開いて、罪の行為の結果を 人々に示されるのは、憐れみと愛によるのである。いちじくの木がのろわれたのは、実地に示された譬であった。キリス トの面前で、見せかけの葉をひらひらさせている実のならないこの木は、 ユダヤ国民の象徴であった。
各時代の希望電子版 p608  滅ぶべき民

ユダヤ国民は、限りない愛の神の訴えをあざける各時代の人々を象徴していた。キリストがエルサレムについて泣かれた時の涙は、すべての時代の罪のためであった。神の聖霊の譴責と警告をこばむ者は、イスラ エルに宣告された刑罰のうちに、自分自身の罪の宣告を読むことができる。いまの世代に、不信のユダヤ人と同じ道を歩んでいる者が多い。彼らは神の力のあらわれを目に見た。聖霊は彼らの心に語った。しかし彼らは不信と抵抗をあくまでもやめない。神は彼らに警告と譴責を送られるが、彼らは自分の誤りを告白したがらないで、神の使命と使者をこばむ。 彼らの回復のために神が用いられる方法までが、彼らにとってはつまずきの石となる。
各時代の希望電子版 p612  滅ぶべき民

キリストは、エルサレムがいつまでも頑固に悔い改めないことを予見された。しかしすべての不義、しりぞけられた憐れみのすべての結果は、 エルサレム自身の門口にあった。同じ道を歩むすべての魂にとっても同様である。主はこう宣告しておられる。「イスラエルよ、あなたはあなたを滅ぼす」。「地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災をくだす。それは彼らのたくらみの実である。彼らがわたしの言葉に気をつけず、わたしのお きてを捨てたからである」(ホセア 13:9・英訳、エレミヤ 6:19)。
各時代の希望電子版 p613  滅ぶべき民

人を見下すクリスチャン

職場でひとつの出来事が起こった。ある職員さんの髪の毛が問題になった。髪の毛を染めていることが問題になったそうだがそもそもうちの職場に髪の毛に関する服務規程は無い。院内にいるクリスチャンと言われる人たちが、クリスチャンでない職員さんの服装や髪型をチェックし指導しているのが現状である。「そういう髪型(髪の毛の色)はクリスチャンの医院の相応しくない」と注意する。

人の助け合いを考える時にも、自分を「助けてあげる側」において考えてしまう。自分にはその癖がある。長年教員だったからなのかもしれないが「してあげる」というどこか人を見下した発想が自分の中にあることを常々感じている。

教会生活がそれほど長く無いクリスチャンに対して、自分のように年数だけ長いクリスチャンは「この人はまだ聖所の真理が理解できていないな。三天使の使命も分かっていない。教会が長年守ってきた生活様式や意識も分かっていないから教えてあげなくてはいけない」と思ってしまうことがある。長年クリスチャン生活をして教会に通い、聖書通読をして祈りを欠かさない、そのような状況にあるといつの間にか勘違いしてしまうことがある。自分はそうである。自分が他の人、特にまだイエス様と出会っていない人と比較して優っている、と恐ろしい錯覚をしてしまう。

もっと謙遜に、もっと発言を控え、もっと神様だけを信じなくてはいけないと痛感させられた。

この警告はどの時代にもあてはまる。キリストがご自分の力でつくられた木をのろわれたこの行為は、すべての教会とすべてのクリスチャンにとって1つの警告である。人に奉仕しないならば、だれも神の律法を生活に実行しているとはいえない。ところがキリストの憐れみ深い、無我の生活を実行していない人が多い。自分はりっぱなクリスチャンであると考えている人々が、神に奉仕することがどんなことであるかをわかっていない。彼らは自分自身をよろこばせるために計画し、学ぶ。彼らは自分自身に関してのみ行動する。時間は自分の利益になる時だけ値うちがある。生活のすべての点において、これが彼らの目的である。人のためではなく、自分自身のために、彼らは奉仕するのである。神は、無我の奉仕を行わねばならない世界に住まわせるために、彼らをつくられた。神は、彼らがあらゆる方法で同胞を助けるように計画された。しかし自我があまりに大きいために、彼らはほかのものは何も見ることがで きない。彼らは人間と接触していない。このように自我のために生きる者は、すべてがみせかけだけで実のならないいちじくの木と同じである。 彼らは礼拝の形式を守っているが、悔い改めもなければ信仰もない。口 先では神の律法を敬っているが、服従が欠けている。彼らは口では言うが、行わない。
各時代の希望電子版 p610  滅ぶべき民

15 Shoko Nagae【私と俺と神様】

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“安倍元首相” への2件の返信

  1. 実のない葉っぱだけの木は昔のユダヤ人だけでなく、時代を越えて現代人にも、また自分自身にもあてはまります。
    生命と財産、或いは地位や名誉が失われることを恐れて法律や道徳や律法を守る人間、また収入だけのために働く人間はすべて実のないイチジクの木にあてはまります。
    実をつけない木は切り倒して火に投げ込めともいわれています。さてどうすれば人間は実をつけることができるのでしょうか。

    1. ハレルヤ!
      貴重なコメントを心より感謝いたします。自分も同じことを考えていました。
      今読んでいる本の中に、人々が捨てた「隅のかしら石」について記述がありました。引用させていただきます。

      多くの人々が自分自身の努力によって切られ、磨かれ、美しくされる。 しかし彼らは、キリストとつながっていないので、生ける石となることはできない。このつながりがなければ、だれも救われない。われわれのうちにキリストのいのちがないならば、試みの嵐に耐えることができな い。われわれの永遠の安全は、堅くすえられた隅のかしら石に築くこと にかかっている。今日多くの者が試みを経ていない土台の上に築いてい る。雨が降り、嵐が吹き荒れ、洪水になると、彼らの家は倒れる。なぜ なら、それは永遠の岩、隅のかしら石であられるイエス・キリストの上に建てられていないからである。
      各時代の希望電子版 p627 ふたたび清められた宮

      隅のかしら石なるイエス様の上に落ち、砕かれることによってイエス様に繋がることができるとも書かれていました。

      コメントを心より感謝いたします。

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