衝撃

会議で

今日は月に一度の部課長会議だった。自分は何かの役があるわけではないのに、何故か出席させられている。場違いな気持ちを持ちながら毎回参加しているが今日は非常に衝撃的なことが起こった。毎回、「え、会議でこんなことを話すの?」と疑ってしまうような議題が飛び出すので慣れているつもりだったが、その上を行く衝撃的出来事だった。

ある職員さんがいる。この方は自分が送迎の仕事をしている時に(正確には2021年7月1日付)入って来られた方である。以前は郵便配達のお仕事を長年されており弘前や黒石の地理は全て頭に入っている。送迎する方のご自宅を毎日一緒に回り道順を覚えていただいたのだが、一通りの説明が終わったところで「住所を教えてもらえればすぐに分かります」と言われた。凄い。頭の中がナビになっている方なのである。

この方が結構マイペースで少々短気なところがあるため院内トラブルの元凶にもなっている。正直言って職員の中では厄介者扱いされているところがある。が、自分とは結構ウマが合う。送迎以外でも感染ゴミの収集や営繕の仕事を1ヶ月近く一緒にやってきたので仲が良い。だからその方が他の職員さんとトラブルを起こすとすごく悲しい気持ちになり、トラブルの後はお節介ながら送迎の車に同乗して話をするようにしてきた。確かに、マイペースだし勝手な判断をしてしまうことがある。が、この医院に関して言えば他の人も結構そういうところがある。同類ではあるが、同じことをしても新人には許されない、ということなのだろうか。

今日の会議中に電話があり、透析の患者さんがまだ到着していないとのことだった。迎えに行く担当はNさんだったのですぐに連絡をすると「忘れていた」との返事だった。悪いことに、毎回会議に出席しない院長が今日は何故か出席しておりことの一部始終が伝わってしまった。

会議が途中から、送迎の問題に発展してしまった。そしてついにNさんに関する話題に。会議の中で個人を名指しで批判したり、問題点を挙げることはご法度だと思ってきたがここでは容赦ない。院長から「彼にはもう辞めてもらおうかと思っている」との意見が出されるとそれを合図に出席者から次々とNさんの悪口が飛び出した。飛び出したというより噴出した。
泣きたい気持ちになった。こんなの会議ではない。「個人名を挙げて批判するのは、自分の知っている会議ではない。批判ではなく意見としていうのであれば個人ではなく部門をあげるべきだ」と発言するのがやっとだった。
会議の参加は9名のうち8名はクリスチャンである。クリスチャンでなくても、そんな当たり前のルールを知らないわけない。これでは小学生の「学級会」「お帰りの会」レベルのも達していない。
怒りを通り越して、会議の参加者が哀れに思えた。

使い捨て

そもそもこのNさんを職場に連れてきたのは院長本人である。会議の中で「辞めてもらおうかと思っている」に加えて「求人を出そう」と言い始めた。当院において職員はいつでも替えがきく「使い捨て」なのだ。
イエス様は一人一人を決してそのようには扱われないはずなのに。イエス様は一人にこだわり続けどこまでも救いの道を用意してくださる方である。そういうイエス様の愛を知り、イエス様の愛を最も受けて赦されているクリスチャンが、他人のことは簡単に裁いてしまう。
そもそも、この投稿をしている自分もNさんを攻撃した人を裁いている。悲しいことである。イエス様だったらどうなさるのだろう?

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
マタイによる福音書7:3

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