獣の像

聖書

聖書通読は使徒行伝からローマ人への手紙に入りここも間も無く終わる。パウロの理路整然とした神学の展開に魅了される。信仰深く行動力があり決断と判断を常に神様に委ねる姿勢など素晴らしいところが沢山あるパウロだが、神様はパウロの知的能力も用いていらっしゃることが良くわかる。自分は神学を知らないが、自分のように無知な者でも、また2000年もの時代格差がある者にも真理が伝わるよう素晴らしい理論展開をしている。聖書を読んでいると正に「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもの」であることがよくわかる。サタンはこの聖書をできるだけ読ませないよう絶えず努力をしている。真理を見つけるために、イエス様に出会うために聖書を読むことの大切さを痛感している。間も無く聖書が読めなくなり、また自分一人で重大な決断をしなくてはならない時が来る。今のうちに聖書の言葉をしっかりと心の焼きつけておく必要がある。

聖書を読まない、という意味では自分の職場にいるクリスチャンのみなさんもあまり聖書を読まない。「職員礼拝」なるものが毎朝行われており職員の中にいるクリスチャンが交代でメッセージを語るようになっている。しかし殆どの職員が何かの読み物を読んで礼拝のメッセージとしてしまう。書物によって沢山の祝福が得られるのでとても良いのだが、一方でその方が経験した御言葉の証を是非聴いてみたいと思っている。しばらく前に、なぜ職員さんたちは証をしないのかをやんわりと聴いたことがあった。その答えによると「院長先生が聖書の権威者だから、先生がいる前で聖書の話はできません。自分の聖書解釈が間違っていることを指摘されるだけですから」とのことだった。良くも悪くも院長先生至上主義のようなところがあり誰も聖書を語ろうとしない。そして院長先生が話したことを自分の聖書理解としている。これでは暗黒時代に聖書が個人で持てず司祭が語る聖書の言葉を聴くだけだった中世と同じである。

協力者・妨害者

今の職場に来て驚くことばかりを経験しているが、その中でも結構驚いたことがある。それは引退した牧師先生を個人的に牧師として雇用していることだった。自分の通う教会は牧師が常駐する教会ではないので、月に一度牧師先生が仙台からやってくる。この牧師先生は教団が雇っている牧師先生で教団のルールの中で牧会を行なっている。しかし、院長個人が牧師を雇っているのでこの牧師も月に一度やはり仙台から青森までやってくる。これは教団が雇っている訳ではないので、正規の牧師先生も結構やりにくそうにしている。またこの正規ではない牧師先生が毎月16万円(交通費、謝礼は別)で雇われているので、院長先生には決して意見しない。教団の教理に反する神学を展開していても見て見ぬ振りをする。また院長先生に対する迎合が激しいので教会員の中の数名はこの非正規の牧師先生が来る週は礼拝を欠席してしまう。自分はこの先生を尊敬もしていたので、何とかうまくやっていけないものかと考えているのだが20年以上に渡る歪んだ制度とそれによって教会内に起こる確執はそう簡単には解決しない。今回もこの非正規牧師先生が来る日が大雪の予報だったので、色々な意味で来れないことが神様の御心ではないかとも考えていたが、何と前日から来院していた。何か教会内、職場内で争いや不和があるのは悲しい。それもベテランのクリスチャンや牧師先生によって引き起こされていると思うと、いよいよ世の終わりなのだな、と考えてしまう。

獣の像

聖書を読んでいるといくつか象徴で表現されておりそれが何を指しているのか一見しただけでは分からないものがいくつもある。その中の一つが黙示録に出て来る「獣の像」である。

「さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。 それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」

ヨハネの黙示録 13:14-15 口語訳

いったいこの「獣の像」とは何を指しているのだろう。なかなか分かりにくいのだが自分の所属する教団ではこれを「背信したプロテスタント教会」と理解している。

この獣の像とは何であろうか。そして、それは、どのようにして造られれるものなのであろうか。この像は、二本の角を持った獣によって造られるものであり、先の獣に模した像である。それは、また、獣の像とも呼ばれている。したがって、像が何であり、どのようにして造られるかを知るためには、獣そのもの、すなわち法皇権の特徴を研究しなければならない。

初代教会は、福音の単純さを離れて堕落し、異教の儀式と習慣を受け入れたときに、聖霊と神の力を失った。そして、人々の良心を支配するために、世俗の権力の援助を求めた。…

その結果が、法皇権であって、それは、国家の権力を支配し、それを教会自身の目的、特に「異端」の処罰のために用いた教会であった。米国が獣の像を造るためには、宗教的権力が政府を支配し、教会が、教会自身の目的を遂行するために、国家の権力を用いるようにならなければならない。…

「獣の像」は、プロテスタント諸教会が自分たちの教義を強制するために公的力の助けを求める時に起きてくるところの、そうした背教のプロテスタント教会を表している。
各時代の大争闘 新書 p508.511
終わりの時代の諸事件 p219

教会の中は決して安全な場所ではない。特に終末時代はそうである。誰もが自分の聖書理解、福音理解が正しいと思っている。でも本当にそうなのか。毎日毎日神様に問いかけないといけないことだと思っている。青森に来て、公然とキリストを語り神様に忠実であるかにみえる人たちが実は影でイエス様を悲しませている状況を沢山見せられた。こういう世界もあるのかとかなり驚いているが、その人たちのために祈るとともに自分自身がもっと神様を求めて行かなくてはならないと痛感している。

第9回「暗黒時代の実相」講師:稲田 豊

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