開 眼

毎日ジムに行くと靴を履き替える。何気無く見る靴底の減り具合。歩く際に外側につま先が向くのか踵の外側が極端に減り内側は殆ど減っていない。少し足を引きずるように歩くのも自分の癖かもしれない。また微妙に左右で靴底の減り方が違う事にも気づく。また、1週間ほど前に左手首を痛めてしまい、仕方がないので右腕に時計をしている。自分は腕時計をする習慣がある。恐らく小学生の後半からしていたと思う。時計が好きということもあるが左腕に時計がないと身体中のバランスが崩れてしまい上手く歩けない。そんなバカなこと、と思うかもしれないが本当なのだ。現在右腕に時計があるので上手に時間を見ることができない。左腕なら簡単に手首を内側に捻り文字盤を確認できるのだが右腕はそう簡単に捻れない。また時計のベルトの長さも昔から決まっている。時計が密着していると気持ちが悪くなってしまうのだ。左腕に時計をつけて右手の人差し指と中指の2本が入るゆとりがないとダメなのだ。他の人からすると若干緩めだと思うがこのサイズが自分には丁度いい。他にも色々ある。バイオリンを弾く時の姿勢。元々猫背で姿勢が悪いので何度も直されたがやはり猫背の姿勢は完全には直らない。バイオリンの構え方、弓の持ち方は基本がありそれを徹底的に教えられるがそれでも自分なりの姿勢、自分なりの弓の持ち方になってしまう。長男は小さい頃からバイオリンのレッスンをしていただいているが自宅での練習は自分が担当する。自分が教えるので姿勢や弓の動かし方、また音色まで少し似てきてしまう。それを週に1回のレッスンで矯正してもらうのだ。現在長男が使っているバイオリンは元々私が20年ほど前に作っていただいたものだ。長男に4/4サイズが必要になった時、30万円程度の安いバイオリンを買ってあげた。が彼がどうしても私のバイオリンが良いと言うので多少躊躇はあったが交換してあげた。金額も3ないし4倍ぐらい違う。しかし値段よりも慣れのようなものがあるのでそれがネックになった。でも子どもにお願いされたらダメとは言えない。結局私は30万円ほどの安バイオリンを使っている。長男が弾くバイオリンの音色を聴いていると確かに自分がかつて使っていたバイオリンの音色だということがわかる。しかし、自分が弾く時の音色とはまた若干違う気がする。不思議なものである。同じものでも誰の手にあるかによって個性が生まれる。そして人それぞれに特徴的な癖というものがある。自分は教員室に近づいてくる足音でどの先生なのかが分かる。それぐらい癖には個性が現れており、個人を識別するのに有効な方法なのだろう。

聖書の話

どうでも良い前文になってしまったが今日の投稿にどうしても必要な予備知識だったので書かせてもらった。イエス・キリストは十字架に掛かり金曜日のサンセット直前(午後3時頃)に息引き取られた。十字架刑は長く苦しみそれを見せしめとする刑なので十字架に掛かって6時間で亡くなるのは他に例を見ないほど早いことらしい。そのご遺体をアリマタヤのヨセフが引き取り自分のために用意しておいた墓に葬った。イエス様のご遺体を亜麻布で包んで横穴式の墓に葬り石を入り口においてローマの封印を施した。因みにその時イエス様を包んだ布として「トリノの聖骸布」というものがあるがこれは全くの偽物であると言われている。何れにしてもこの墓石を取り除け復活したイエスキリストが墓から出たのである。この出来事が起こってすぐは情報が錯綜して何が本当のことなのか混乱している場面が聖書の記事からうかがい知ることができる。その混乱の中、肩を落としたふたりの青年のことが出てくる。ふたりのうちひとりは「クレオパ」という人物。もうひとりの名前は明かされていないがイエスの弟子(12人の弟子の他にいた70人の弟子)のひとりではないかと推測することができる。彼らはイエスキリストが蘇ったという、にわかには信じられない情報も知っていた。しかしそれを信じるよりもイエスキリストが十字架で死んでしまったこと、そしてその御遺体が何者かによって盗まれてしまった事に心を痛めていた。兎に角失望の中で、一度自分自身を取り戻そうと日常生活に帰ろうとしているその途上での出来事。彼らはエルサレムを出発して11kmほど離れたエマオという村に向かっていた。「俺たちのイエス様、本当に死んじゃったな」「復活したっていう噂もあるけど本当かな?」などとずっとエルサレムで見た事聞いたことを反芻するように話し合っていた。するとそこにひとりの人が話に割り込んでくる。「何のことを話ているのですか?」と尋ねるこの人にふたりの青年は「あんた、エルサレムではもうこの話で持ちきりだよ。あんただってエルサレムから来たんでしょ。この話を知らないなんてあんたぐらいだよ」と答えた。しかしこの人のストレートな話し方や聖書に対する知識の豊かさに感銘を受け、徐々に心が燃え上がって来た。そしてもっと話しを聞かせてもらいたくなったふたりは、自分たちの家で食事をして今晩泊まって行って欲しいと強いた。実はこの人物こそイエスキリストであった。イエスキリストを知っているふたりの青年が何故イエスと分からなかったのかは定かでないが、彼らの思い込み(イエスは死んでしまったこの世にはそんな石ないという思い込み)や失望、あるいは神様が彼らの霊的な眼を閉じられていたのかもしれない。そして家に着くとすぐに食事をした。イスラエルの習慣ではその食事の主催者、ホストがパンを割く事になっていたが、この時は何故か客人であるイエスキリストがパンを割いた。おもむろにパンを割くその手つきを見て、彼らはこの人こそ復活したイエスキリストだと確信した。するとイエス様の姿が見えなくなってしまった。彼らは大興奮のあまり取るものも取り敢えずエルサレムに戻り11人の弟子たちにこのことを伝えに行った。因みにこのクレオパトいう人物は後に初代教会というものが誕生するがその時に指導的な立場に立って教会を支える重鎮となった。また紀元70年のエルサレム陥落時にメシアニックジューがひとりも滅びなかったことを以前に投稿したが、エルサレムのメシアニックジューを安全に城外に連れ出した指導者がクレオパであるとも言われている。

肩を落とす人と共に

聖書のこの部分を読むととても勇気が湧いてくる。悲しみ、苦しみ、疎外感や孤独、失望、不安、恐れなどで途方にくれる時、エマオに行く青年と同様に私たちにもイエス様が同行してくださっているという約束であり教えである。それがイエス様である。あるいはイエス様が遣わされた方、イエス様の計画で起こっている出来事なのである。そうとは認識できないけれど確かにイエス様の存在、或いはその印なのである。どん底の状態ですれ違った人、声をかけてくれた人、苦境に立たされたときに経験した心温まる出来事等々。それがどのようなものであろうと、イエス様はひとりひとりの今の状況をよくご存知で私たち以上に涙を流して悲しみ苦しんでくださっている。そして何とか救いたいと考えてくださっている。キリスト教の神様は、難行苦行を通してあるレベルまで成熟したところでやっと会える神ではない。自分たち以上に今の苦境を理解して共に苦しみ悩み涙を流してくださる神様なのである。その神様が、あなたと一緒に歩みたいと仰ってくださる。これにどう応えたら良いだろうか。

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