エリヤに語られた声
「主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。」
列王記上 19:11-12 口語訳
エリヤが神様の御力によりバアルの預言者、アシュラの預言者に対して大勝利をおさめた直後王妃イゼベルに殺すと脅され命からがら40日かけてホレブの山に逃げた時のことである。風や地震、火が起こったがそれらの大きな音や大きな出来事の中に神様はおられなかった。しかしそれらが過ぎ去った後に静かな細い声がエリヤに語った。これこそが神様の声であった。大きな出来事、興奮状態は人の心を容易に動かす。実際に自分も以前はリバイバル集会と聞けばどこにでも出かけて行った。特に当時は聖霊様の働きに対して非常に興味があったので機会を見つけてはでかけていた。聖霊様に打たれて次々と人が倒れて行く姿は圧巻だった。自分は興奮状態にはあったが聖霊様の臨在を感じていたわけではなかった。しかしあれから20年が過ぎ、今現在はどうであろうか。小さな教会の小さな祈祷会に参加しただけで聖霊様に触れられている気がして涙が出てくる。車を運転しながらイエス様のご生涯を考えるだけで涙が出てくる。神様は多くの場合、小さな細き御声で語ってくださるような気がする。
嵐の中で
昨日の記事にも書いたが現在妻からの攻撃が激化して止まらない。毎日爆弾を落とされている。今日も更に激しい攻撃があった。本当に悲しくどうしたら良いのか、神様はどこに行ってしまったのかとうろたえてしまった。ところが、ここで非常に不思議なことが起こった。普段、自分のこの拙い文章を読んでくださる方はほとんどおらず、ましてやコメントをくださるなどまずない。今まで2,3通のコメントがあっただけだ。ところが今日とても示唆にとんだコメントをいただいた。まずは祈る内容について。結果を祈り求めるのではなく手段を祈る方が良いと教えていただいた。夫婦円満という結果を祈り求めるのではなく妻を愛する愛をくださいと祈る。またコメントをくださった読者様は自分よりも年齢的に先輩のようで、ご自分も奥様と犬猿の仲だった時期があったとのこと。そして最後にはまだまだ仲直りできる機会はあると思うと励ましてくださった。何かとても心に残る文章で何度も何度も読み返しているうちに、これは神様からの細き御声だ、と思い涙が流れてきた。妻との関係においては今日も朝からたくさんの爆弾が落とされ続けていたが、その大災難の一歩中では神様からの細き御声が語られていた。
静まって
「「静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる」。」
詩篇 46:10 口語訳
この聖句を読んだ時に、自分の言い分や意見は良いからまずは神様が何をおしゃっているのかその声に耳を傾けなさい、という意味に捉えていた。それで間違いではないと思うがもうひとつの意味があると思う。それは「静かな場所に退いて」「日常の忙しさや雑踏を離れて静かなところで」という意味である。忙しさだけではない。試練や困難、恐れなどから目を転じてイエス様に向けなさいという意味にも取れる言葉である。自分の置かれている状況を一歩離れて細き御声を聴こうとするときに神様は不思議な方法で語ってくださるのではないだろうか。
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