手のかかる生徒

よくある朝の光景

本校では毎朝7時30分から教職員だけの礼拝を行い、その後1日の確認をしてそれぞれの持ち場に分かれる。私はだいたい7時15分頃に出勤するようにしている。1日の仕事を確認して個人の祈りをささげてから教職員の礼拝に参加するのが日常になっている。随分前になるが、毎朝とは言わないまでも3日に2日のペースでひとりの生徒が教員室にやって来ていた。この教職員礼拝前の時間に。毎回大きな声で何かを訴えている。その時に出勤していれば自分がなるべく対応するようにしていた。友達とのいざこざを訴えてくることもある。課題が多く今日の提出に間に合わないと訴えてくることもある。機嫌が良い時もあるが稀だ。S君は自分の様子や感情を友達ではなく教員に訴えてくる。ある時、ひどく興奮した状態でS君が教員室にやって来た。いつも同様教職員礼拝の直前に。どうやら友達と喧嘩をしてしまったらしい。当時、教頭で生徒部も兼務していたのでゆっくりと彼の話しを聞かせてもらった。時々泣きながら、そして興奮気味に自分がされたことを訴えた。とりあえず彼を一度教室に戻し相手の生徒にも話しを聞いてみたがS君の訴えとはかなり違っていた。S君が帽子を被って歩いているところをこの相手の友達が走りながらS君の脇を通り過ぎた。その時にS君の帽子が落ちたとのこと。ぶつかったのか、あるいは軽くかぶっていたので風圧で飛んだのかはよくわからない。が、走っていた友達はS君の帽子が落ちたことに気づき帽子を拾い「ごめん」といってS君の頭にのせた。この状況をS君は後ろからぶつかって来た彼によって自分は倒れこみそのはずみで帽子が脱げた。そしてその帽子で彼は自分の頭を何度も叩いた、と言うのである。全く話が噛み合わない。仕方がないので昼休みに、当時近くにいた数名の生徒に事情を聞いてみた。彼らの話しは走って通り過ぎた生徒の言っていることとほとんど同じ内容だった。この、様子を教えてくれた生徒たちは当該のふたりとは特に力関係があったり利害関係がある訳ではなく学年も違う生徒たちだった。少しS君の言っている内容に信憑性があるのか無いのかを確認する必要を感じた。

よくある朝の光景何かあればいつも僕のせい

放課後、S君と話す機会が与えられた。今朝のことには直接触れず彼のこれまでを色々と知りたくなり聞いてみた。
「小学生の時に楽しかったことは?」
「小学生の時に困ったことや辛かったことは?」
など比較的答えやすい質問をしてみた。
「僕は友達も多く最初はとても楽しく生活できたんです」
「でも…」
彼は次第に変化していく自分を取り巻く環境について話してくれた。ある時、友達が追いかけっこをしている時に教室に置いてあった花瓶を落として割ってしまった。「あぁ〜」と言う周りの声に対して当該のふたりは「俺たちじゃ無い」と言い張ったと言う。そして間も無く教室に入って来た担任に「これは誰がやったのか?」と言う問いに、割った本人が「S君です」と言った。他の数名もS君ではなく、追いかけっこをしていたふたりであることを知っていたのに、「S君です」と言う声に誰も反応しなかった。その状況に驚いたS君は先生からの「S君、君がやったのか?」という問いに答えられずそのままS君がやったことになってしまった、と言う。それから何かにつけて学級で問題があるとS君が悪者にされるようになっていった。そしてS君も必要以上に自分を正当化しないと自分が悪者にされることを学んだと話してくれた。

診断名をつけたがる教員

ここからは殆どの人、特に教育現場にいる方、スクールカウンセラーなどからは理解されない話だ。それを承知の上で自分が考えていることを書きたい。まずは
教育現場にカウンセラーは必要なの?
と疑問を持っている。本校にもカウンセラーはいるけれど「この程度の働きなら誰でもできる」と言うレベルである。私は全教員がカウンセラーになるべきであって「スクールカウンセラー」なる特別な職種の人を雇う必要はないと思っている。教員に、生徒の心も問題に踏み込む力量がないからカウンセラーなどと言う人たちに教育現場が荒らされているのではないか。人を教育するのに必要なのは「カウンセリングマインド」ではなく「愛」だと信じている自分に言わせれば、「愛」をおそろかにして、学問だけを教え込もうとする教員が多くなっていること自体が問題なのだ。どのような生徒に対しても、自分に牙を剥いてくる生徒に対しても愛の心で彼らをみていると自分が何をすべきかが見えてくるはず。生徒の持っている個性や良い部分を伸ばし、少し方向を変化させるのは強制力ではなく「愛」なのだ。この「愛」をおろそかにするから生徒は「もっと愛してくれ」といろいろな表現で訴えてくる。愛されたいと訴えてくる生徒をなぜスクールカウンセラーに任せるのか?私には理解できない。また

診断名をつけることで「よく知っている」先生を気取るな

とも言いたい。生徒にはいろいろな個性がある。短気、穏やか、集中力がない、熱心、包容力がある、集団で行動できない等々。本来医師や臨床心理士にしか許されていないその子の個性を、ある診断名で片付けることがある。「あの子はアスペルガーだから」「ADHDなら仕方ない」など。その診断名を知ることで対応が変わるのか?確かに変わる先生もいるかもしれないが形容詞を一つ増やして悦に入っている教員も多いように思う。自分も含めて教員は皆人間である。教員だって私のように鬱状態になることもある。発達障害の診断を受けて教員になっている人などいくらでもいる。自分のことを差し置いて生徒のこととなると、「どの病気に分類されるのか」を調べたがるのである。そのような時間があるのなら少しでも「この生徒をそのまま愛するためにはどうしたら良いか」を真剣に考えて欲しいものだ。自分は心理学関連の本をほとんど読まない。殆どというか全く読まない。それらの本に何が書いてあるのかも分からないのでコメントはできないが、そのような本を読み知識を増すことは自分の感性を混乱させるだけだと思っている。心理学を否定しているのではない。ただ教育現場にいる人間が心理学の評価を下げているのではないかと言っているのだ。教育者が真の教育の意味を知り、愛に根ざした教育を行えれば心理学とも良い関係を構築できる気がしている。

生徒を理解する

話をS君に戻そう。彼の小学生時代の話しを聴きながら、自分にも彼と同じようなところで戦っている身近のことを考えていた。話の途中からその身近な人のことを考えて心が痛み始めた。そしてこらえきれなくなり涙が流れてしまった。落ち着いて話していたS君だったが私の涙をみて驚いたようで話をやめた。「いいからそのまま話を続けてくれる?」と促すと彼はもっと穏やかな声で話してくれた。一通りの話が終わるり「S君、今まで辛かったね。そう言う誤解を受けながら君はずっと学校に通いつづけたんだね。立派なことだし君の勲章だね。」と言うと彼は急に泣き出した。自分は今までそのように理解されたことがなかった。中学校(系列の中学校出身だが)でも先生たちから「お前が悪い」としか言われなかった。理解されたかったのに誰も理解しようとしてくれなかった、と言いながら大泣きしていた。そして今朝の出来事も自分が大げさに訴えていたことを話してくれた。相手の生徒には申し訳ない気持ちがあるようなので、その生徒を教頭室に呼んだ。そしてS君は事の次第と自分の気持ちを相手に素直に伝え「本当に申し訳ない」と謝罪した。相手の生徒も「友達だから喧嘩もするよ。でも友達だからいつでも赦しているよ。」と言ってS君の謝罪を笑顔で受けていた。問題がひとつ解決した瞬間だがS君にとっては更に大きな転機となった。それからの彼は毎朝のように大声で何かを訴えてくることが激減した。そして何かあればまず私のところに来て冷静に自分の意見を言えるようになった。心が柔らかい高校生だとこういう劇的な変化ができる。私のような石より硬くなった心は少々のことで変化することはない。彼のようになりたいと思った。それから数日が過ぎ彼のご両親が学校に来られた。彼のご両親は結構勢いのある方で、彼の小学生時代はなんども学校に怒鳴り込みに行ったと聞く。また系列の中学校にも何度も怒鳴り込んで来られたらしい。そのご両親が来られたので周りの教員もかなり心配していたようだ。しかしS君のご両親が来られた理由は怒鳴り込みではない。今まで学校で理解されたことがない我が子が「初めて先生から理解された。そして自分から友達の正直に話して謝ることもできた。」と電話をかけてきたことに驚かれて挨拶に来られたのだ。ご両親にはこれまでの経緯とこれからの指導方針、そして教員には決してできない親御さんの役割についてお話をしてご協力の約束をいただいた。ともすると学校では「指導しやすい生徒」にしようと教育する傾向があるかもしれない。しかし学校は「愛」を身を以て教える場所であり、1冊の本を読み聞かせるのではなく、本の読み方を教えて自分でどの本も読める力を養う場所である。学校は生徒のための場所であって教員のための場所でないことを理解してもらいたいと常々思っている。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA