キリストの苦悩

ゲッセマネの祈り

イエス様の事が頭から離れない。イエス様の十字架を想像すると涙が止まらなくなる。鬱のせいだろうか。まだ精神的に回復していないのかも知れないがとにかくイエス様のことを考えると切なくなり涙が流れてくる。十字架の場面もそうだが、その直前のゲッセマネの祈りを想像するととても悲しくなる。昔、ゲッセマネの園に行った事がある。昼間に行ったので暗くて寂しいところ、という印象はなかったが確かにイエス様はあの場所で苦悩を味わったのである。何がイエス様を苦しめたのか。苦悶の表情で祈り続け苦しまれたのは何故だったのか。その正確なところはよく分からないが、イエス様は人間として人類の全ての罪を背負う運命に圧倒されていたのではないか。仲保者であるはずのイエス様自身が罰を受ける当事者になってしまったので仲保の働きをしてくれる存在がなかった。これで父なる神様との関係が根絶されてしまうのではないかという怖れがイエス様を支配していたのではないだろうか。浅はかな考えに基づく勝手な想像なので、この場面に関してエレンホワイトが「各時代の希望」という書物の「ゲッセマネ」という章でヒントとなる文章を書いているのでそれを紹介したいと思う。

キリストはいま、これまでとちがった態度をとっておられた。主の苦難は、預言者ゼカリヤのことばによって最もよくえがかれている。「万軍の主は言われる、『つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ』」(ゼカリヤ 13:7 )。罪深い人間の身代りまた保証人として、キリストは神の正義の下に苦難を受けておられた。主は、正義が何であるかがおわかりになった。これまでキリストは、他人のために執り成すお方であったが、いま主はご自分のために執り成してくれる者がほしいと望まれた。キリストは、天父とのつながりが切れたと感じられた時、人としてのご自分の性質では、きたるべき暗黒の勢力との戦いに耐えることができないと心配された。試みの荒野では人類の運命がかけられていた。その時キリストは勝利者となられた。いま誘惑者は、最後の恐るべき戦いのためにやってきていた。このために、サタンは、キリストの3年の公生涯のあいだ準備してきた。サタンはすべてをかけていた。もしここで失敗すれば、支配への望みは失われるのである。この世の王国はついにキリストのものとなり、彼自身は敗北して追い出されるのである。しかし、もしキリストに打ち勝つことができれば、地はサタンの王国となり、人類は永遠に彼の権力下におかれるのである。この戦いの結果を目の前にして、キリストの魂は、神からの隔離という恐れに満たされた。もしキリストが罪の世の保証人となられるならば、隔離は永遠のものとなり、キリストは、サタンの王国と一体となり、ふたたび神と1つになることがおできにならないであろうと、サタンはキリストに告げた。
エレンホワイト 各時代の希望電子版 P728

ふたたび神のみ子は、超人的な苦悩に陥り、気を失いそうに力がつき果てて、よろめきながら前の戦いの場所へ戻って行かれた。主の苦しみは前よりも一層ひどかった。魂の苦悩がイエスにのぞむと、「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ 22:4 4 )。いとすぎの木としゅろの木がイエスの苦悩について無言の目撃者であった。暗黒の勢力と1人で戦っておられる創造者のために自然が泣いているかのように、葉の茂った木の枝から重いしずくがイエスの悲しいお姿の上に落ちた。しばらく前には、イエスは、堂々たる杉の木のように立って、激しく襲いかかる反対の嵐に耐えておられた。頑固な意志や、悪意と狡猾さに満ちた心がイエスを混乱させ、圧倒しようとつとめてもむだだった。イエスは、神のみ子として天来の威厳をもって耐えられた。ところが今イエスは、激しい嵐に打たれて折れた葦のようであった。イエスは、1歩1歩暗黒の勢力に勝利して、勝利者としてご自分の働きの完成に近づいておられた。すでに栄光を受けたお方として、イエスは神と1つであることを主張された。ためらうことのない調子で、イエスは賛美の歌を口から出された。イエスは弟子たちに勇気のあるやさしいことばで語られた。しかし今暗黒の勢力の時が来ていた。
エレンホワイト 各時代の希望電子版 P731

イエスは、引き返して、ふたたび1人になられると、大いなる暗黒の恐ろしさに圧倒されて、ぱったりうつぶせになられた。神のみ子の人性はこの試みの時にたじろいだ。主は、こんどは弟子たちの信仰が失われないようにとお祈りにならず、試みられ、苦しんでおられるご自分の魂のために祈られた。恐るべき瞬間がきていた。それは世の運命を決定する瞬間であった。人類の運命ははかりでゆれていた。キリストは、不義な人類に課せられた杯から飲むことをいまでも拒否することがおできになった。まだ遅くなかった。主はひたいの血の汗をふいて、人類を罪とがのうちに滅びるままにしておくこともおできになった。罪人にその罪の値を受けさせて、わたしは父のみもとにもどろうと言うこともおできになった。神のみ子は、屈辱と苦悩のにがい杯を飲まれるだろうか。罪なきお方が不義な者を救うために罪の行為の結果を受けられるだろうか。イエスの青ざめたくちびるから、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」とのことばがふるえながらもれる(マタイ 26: 4 2 )。
エレンホワイト 各時代の希望電子版 P732

イエス様が選択しなかったこと

何故そこまで人類にこだわったのだろう。これほど邪悪でイエス様を否定し続け神様を呪うような人々を救おうとするのか。罪人を諦めてまた新しく人類を創造したらよいのではないか、と思ってしまう。少なくとも自分のような人間のために命を落とすなど考えられない。罪人はそれぞれがその責任を自分で刈り取り滅べばよい、という考えが自分自身の中にもある。エレンホワイトの書物にもそのような事が載っていた。

キリストが、人の魂のために払われる価について思いをめぐらしておられる姿を見なさい。苦悩のあまり、主は、神から遠くへ引き離されまいとするかのように、冷たい大地にすがりつかれる。冷たい夜露がそのひれふしたお体におりるが、主は気にされない。その青ざめたくちびるから、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とのいたいたしい叫びがもれる。それでもなお主は、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」とつけ加えられる(マタイ 26:39 )。人の心は苦難のうちにあって同情を求める。このような熱望をキリストは全心全霊の奥底まで感じられた。キリストは、悲しみと苦しみの時にしばしば祝福し、慰め、保護しておやりになった者たちから何か慰めのことばを聞きたいと心の底から望んで、魂の最高の苦悩をいだいて、弟子たちのところへこられた。彼らにいつも同情のことばをかけてこられたお方が、いま超人的な苦悩を経験し、弟子たちが主のために、また自分自身のために祈っていることを知りたいと熱望された。罪の邪悪さがどんなに暗くみえたことだろう。ご自分は神の前に罪のないお方のままでいて、人類の不義の結果は彼ら自身に負わせたらよいではないかという誘惑が激しかった。弟子たちがこのことを理解し、感謝しているということを知ることさえできたら、キリストは力づけられるのであった。
エレンホワイト 各時代の希望電子版 P729

ご自分は神の前に罪のないお方のままでいて、人類の不義の結果は彼ら自身に負わせたらよいではないかという誘惑が激しかった。

イエス様のこのこだわりがどうしても理解できない。ただ、その愛の深さには驚嘆するが。イエス様の愛が重すぎる。イエス様の愛が自分を混乱させる。イエス様の愛が自分の生き方を変えてしまう。今日の祈りの中で無性にイエス様に会いたくなったことを祈った。聖書の御言葉を通してではなく直接イエス様に会って会話をしたいと思いたまらなくなった。もし会話ができたら聞いてみたい。「イエス様、何故自分のようなどうしようもないポンコツにこだわるのですか。こんな人間はそのまま放っておけばやがて淘汰されてしまいます。こんなゴミ以下の人間のことなど忘れてしまえばよかったじゃないですか」と。でも返ってくる答えも何となく分かる。恐らく「それでもお前を愛しているのだ」と言うのだと思う。本当に申し訳ない。

ゲッセマネの園

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