僅か2年前、されど2年前
今日は長男が在学している学校の「サマーコンサート」が行われた。2年前まで自分たち家族もここにおりサマーコンサートには色々な形で参加していたので配信でこのコンサートを視聴することに何となく違和感を感じていた。2年前のことは今でもはっきり覚えている。特に次男のことで非常に辛い思いをしたので決して忘れることができない。次男は少し多動の傾向があるということで入学してすぐに次男が参加できる行事と参加できない行事がプリントされて手渡された。このサマーコンサートは参加できないプログラムに入っていた。次男は歌うことが大好きでこのコンサートに参加することを幼稚園の時から楽しみにしていた。しかしそれに参加できないというのだ。理由は小学生の品位を落としかねないから、ということだった。小学生と言ってもキャンパスに住む教員の子どもたちばかりの10名程度の学校である。そしてここはキリスト教教育をする学校である。自分は勿論のこと妻は非常に落ち込んで激しく泣いていた。自分も妻も教員なので集団作りということについては色々な経験をしている。2人の共通の意見は、誰かを排除した段階ですでに集団作りは失敗している、というだった。何故次男が排除されなくてはならないのか。妻はその後何度も学校に掛け合った。キリスト教教育を謳いながらそのかけらも感じられない学校に何を言っても通じないと思ったが、妻の熱意が伝わりサマーコンサート1週間前に見極めをするのでそれまでに練習をしておくように、とのことだった。この学校の副校長夫妻は自分たちを何様だと思っているのかと憤りを覚えたがそんな時間はない。妻は毎日夕食が終わると体育館に次男を連れて行き跳び箱の上に次男を立たせて伴奏のCDに合わせて歌わせていた。自分もお客さんになるようにと何度か同行させてもらったが、手前味噌であるがなかなか上手に歌えている。その熱心さがよく伝わって来た。そして見極めの時が来た。理不尽さを覚えながらも試験のような会場で緊張する次男が泣きそうな顔で頑張って練習の成果を披露した。結果的にはサマーコンサートに出られることになった。本当に嬉しかった。と同時にこの副校長夫妻に対する恨みは消えないものとなった。
学校って何なのか
持論であるが学校は生徒が育つところでもあるが同時に生徒を傷つける場所でもある。このことを教員が自覚していないととんでもないことになる。人を育てるはずの学校が、手のかからない子を良い子と評価し手のかかる生徒を問題児として見るのである。うちの子も小学校ではそう思われていたのだ。本当に悲しい。あろうことかこの副校長夫妻は次男のダメなところを徹底的に本人に言い続け場合によっては暴力を使ってそれを教え込んだ。教え込んだのは、本人がいかにダメなのか、をである。キリスト教主義と言ってこれほど信用できない学校はない。次男は確かに多動傾向はあるが、人との壁を作らない。だから誰に対しても親しく話しかけ友達になることができる。スーパーマーケットで見知らぬおじさんと友達になったり、郵便局で出会ったおばあさんと親しくなりそのことが新聞で紹介されたこともある。でもこの学校はそんなことはどうでも良いのである。ダメな子はダメなのである。本当に悲しい。終わった学校である。この学校に限らず世間にはこのような学校がまだまだたくさんあるように思う。若い魂のエネルギーを奪い、夢を打ち砕きお金だけは取る、という学校が。
今日の御言葉
兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
For, brethren, ye have been called unto liberty; only use not liberty for an occasion to the flesh, but by love serve one another.
ガラテア人への手紙5:13
主はそばに – Compass –
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