五所川原立佞武多(ゴショガワラ タチネプタ)

ねぷた、ねぶた

昨日、五所川原の「立佞武多の館」なる所に行った。(立佞武多の館 青森県五所川原市大町506-10   Tel 0173-38-3232)青森には大きく3ないし4つのねぷたがある。「青森のねぶた」「弘前のねぷた」「黒石のねぷた」そして今回行った「五所川原の立佞武多」である。なぜか青森だけねぶたというそうだ。五所川原の立佞武多に関してだけになるが少し見たり聞いたりして学んだことがあったので紹介したいと思う。

五所川原には大きな立佞武多が3体存在する。毎年行われる(2020年はコロナの影響で中止、2021年は開催決定)ネプタ祭りに合わせて一体が解体され新しい一体が完成する。常に歴代の3体が稼働する。立佞武多の歴史は明治時代に遡るが文明の発達に伴い道路には電柱や電線が存在するようになり立佞武多が街を通行することが困難になりもっと背の低いねぷたに変化していった。しかし明治時代の立佞武多の写真や台座の図面が出てきたのをきっかけにこれを復興させようとする動きが始まりついに1996年に市民有志が高さ22mの巨大立佞武多を完成させた。1998年より祭りの名称を「五所川原立佞武多」としておよそ90年ぶりに完全復活し現在の形になった。年々によって若干の違いはあるが立佞武多の高さはおよそ23m、重量は20トンほどにもなる。立佞武多というくらいだからとにかく背が高い。その高さ23mはビルの7階ぐらいに相当する。これが街を練り歩くわけだからその通行路となる道路から電線、電柱が撤去され地中に埋められている。この迫力はどのような写真でも恐らく伝わらないと思うが、あまり興味にない自分が行っても非常に驚き興奮する大きさだった。

立佞武多の起源

立佞武多の起源には諸説あり決定打は無い。主なもの3種類があるようだ。

1 坂上田村麻呂の陸奥征討説
795年の陸奥征討の際、坂上田村麻呂が山中に立てこもった蝦夷を誘き出すために大きな灯籠人形に灯を灯した上に笛や太鼓で囃し立て、賊がいぶかって山から出てきたところに奇襲をかけたのを起源とする説。当時のアイヌ語で「あれは何だ」という意味の「ネプタン」なる言葉があったことから「ねぷた」の語源とも言われた。

2 津軽為信の大灯籠
1593年津軽藩初代藩主である津軽為信が京都守護のために上洛していた際、都の人々を驚かすために、家臣の服部長門守に命じて2間四方の大きな灯籠を作らせ、中に灯を灯してお盆の時季に都を練り歩いた、という逸話に基づく説。東北人の「じょっぱり気質」を表すエピソードであり、また弘前のねぶたとして定着している「扇ねぶた」は津軽為信の幼名「扇」に由来しているとされているため、その点で強い関連性をうかがわせる。

3 眠り流し
収穫期の睡魔を追い払うための「眠気払い」として日本各地に広く伝わる「ねむり流し」を起源とする説。いずれも人形や灯籠を睡魔に見立てて川や海に流す点がねぷたに似通っている。津軽弁では「眠い、眠たい」の意を表す語として「ねんぷて」(弘前方面)、「ねぶて」(青森方面)などの表現があることから、それが転じて「ねぷた祭り」「ねぶた祭り」の名で親しまれるようになったものと思われる。

立佞武多の組み立て

立佞武多はそのサイズが巨大なため30から40のパーツに分けられる。古本的には金属の針金で骨組みを作りその周りに和紙を貼り表に絵を書くという製法。中に電球を入れて灯籠のように光る仕組みになっている。立佞武多の組み立ては今回見学した「立佞武多の館」で行われる。館の一角が開くようになっていて祭りになるとマジンガーZのようにここから出陣する。螺旋状の通路を通りながら現存する3体を見たが巨大だが細部に渡って精巧に作られている。1回だけではなく3年間使うことを考えて緻密に設計されている。自分はこのての祭りに全く関心がなかったが、機会があれば今年の立佞武多祭りには是非関学したいものである。それまでにコロナの猛威が収束していることを願うばかりである。

ちなみに立佞武多には下方に「雲漢(うんかん)」と書かれていることが多いがこれは「天の川」を意味する言葉とのこと。

五所川原市 立佞武多【たちねぷた】東北の祭り 2019.08.08

五所川原立佞武多2019(吉幾三 熱唱「立佞武多」)

豪華 ! 絢爛 ! 威容 ! 感動 ! 五所川原市 立佞武多【たちねぷた】 東北の祭り 2019.08.08

 

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