嵐の海で

 人の欲求の一つに「分かって欲しい、理解して欲しい」という気持ちがあると思う。程度の差はあっても誰にでもある欲求であると考える。例えば、運動会で苦手な徒競走があったとする。当日家を出る時に家族から「苦手でも、不得意でも徒競走を最後まで走り抜くことが素晴らしいんだ。そんな君の姿を今日は家族みんなで見ているぞ。」と言われて送り出される。実際に見にきている家族を見つける。家族は自分が運動嫌いで特に走ることが大嫌いなことを知っている。しかし、嫌いな徒競走から逃げることなくチャレンジすることを理解しずっと見ていてくれる。「分かってくれる人がいる」と実感できるだけで心の重荷は軽くなる。嫌いな徒競走を代わって欲しいわけではない。ただ理解して見守ってくれるだけで勇気が出て来る。

 聖書はとても厚い本だがその中を大きく二つに分けることができる。前半が「旧約聖書」後半が「新約聖書」である。新約聖書はまず4つの「福音書」から始まる。これは主にイエス・キリストの誕生から十字架までの生涯を記しており特に「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」の3つを共観福音書という。これらの福音書は同じ記事を扱っていることが多く並行して読むことで状況や情景が浮かび上がって来る。マタイによる福音書14章、マルコによる福音書6章には同じ記事が記されている。 


<聖書の引用>
 みんなを帰したあと、ただお一人になったイエスは、祈るために丘に登って行かれました。 一方、湖上は夕闇に包まれ、弟子たちは強い向かい風と大波に悩まされていました。朝の四時ごろ、イエスが水の上を歩いて弟子たちのところに行かれると、 26弟子たちは悲鳴をあげました。てっきり幽霊だと思ったのです。しかし、すぐにイエスが、「わたしです。こわがらなくてよいのです」と声をおかけになったので、彼らはほっと胸をなでおろしました。その時、ペテロが叫びました。「先生。もしほんとうにあなただったら、私に、水の上を歩いてここまで来いとおっしゃってください。」「いいでしょう。来なさい。」言われるままに、ペテロは舟べりをまたいで、水の上を歩き始めました。 ところが高波を見てこわくなり、沈みかけたので、大声で、「主よ。助けてください」と叫びました。イエスはすぐに手を差し出してペテロを助け、「ああ、信仰の薄い人よ。なぜわたしを疑うのです」と言われました。 32二人が舟に乗り込むと、すぐに風はやみました。舟の中にいた者たちはみな、「あなたはほんとうに神の子です」と告白しました。
(マタイ14:23-33)

 

 ガリラヤでの伝道報告会をしているときに群衆が押し寄せイエスのところに集まった。彼らを空腹のまま帰すわけにいかないので2匹の魚と5つのパンで(成人男性だけで)5000人を養う奇跡のあとの出来事。イエスは疲れている弟子をねぎらい群衆から離れて静かなところに行くよう促すと弟子たちは船を漕ぎだして対岸に向かわせた。この時イエスは船には同乗せず陸にいた。船を漕ぎだして間も無く嵐に遭い弟子たちは何時間(9時間?)も格闘していた。その時イエスが海の上を歩き弟子たちに近づき助けるという話。

 この時海の上を歩くイエスを見て弟子の一人ペテロがイエスに、自分も水の上を歩けるようにして欲しいと願うと、イエスから「いいでしょう。来なさい。」と言われる。しばらくは歩けたが高波を見て恐ろしくなったペテロは急に溺れてしまい間一髪のところでイエスに助けられる。ペテロはイエスの招き、指示に従って視線をイエスに向けているときは水の上を歩けたが視線をイエスから嵐に向けた途端に溺れてしまったのである。

 これは私たちの人生に大きな教訓となる話。キリスト教(プロテスタント教会)は難しいことを教えていない。イエスキリストが自分の罪を許すために十字架で死なれ墓に葬られ、そして3日目に蘇り今は天にて私たちのために働いて(キリスト教界ではとりなしという)くださることを信じるだけで救われる。

 良い人、得を積んだ人、長年教会に通っている人、聖書をよく理解してその知識が豊富な人が救われるのではない。救いは神様側の一方的な恵みで、人間の側で何か努力をして得られるものではない。即ちいまこの文章を読んでいる人も救われる(神様の側からすれば是非救いたい)存在なのである。神様を信じてイエス様から目を離さずに生きるとき、大きな力が溢れるように与えられる。しかし少しでも現実の高波(家庭の問題、健康の問題、人間関係、不安な将来、パワハラの被害、困窮した生活等々)に目を向けた瞬間「幾ら神様でもこの問題を解決することはできない」と思ってしまう。これを不信仰という。実際自分もイエスキリストを見上げているときは問題がありながらも前を向けるが、一旦現実の生活や家族、解雇などを考え始めると心は「死にたい。こんなに不安で辛い気持ちを持ちながら生きるくらいなら死にたい。一瞬怖いのを我慢すれば永遠に苦しまないで済む死を選びたい。」という気持ちになってしまう。ペテロの経験はイエスを信じることの単純さと奥深さを教えているように思う。

 自分が今ここで書きたかったのはペテロのことだけでなくもう一つのことである。弟子たちが海で激しい嵐と格闘しているときイエスは何をしていたのか?ということだ。並行箇所のマルコによる福音書にはこう書いてある。

<聖書の引用>
 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
(マルコによる福音書6:45-51)

 イエスは弟子たちだけを船に乗せて自分は祈るために山に登っていた。そして「弟子たちが漕ぎ悩んでいるのをご覧になって…」とあるようにイエスはこの状況をずっと見ていたのである。「見てないで助けてよ」と思う人もいるかもしれない。が、私はそう思わない。前述の運動会の例のように。分かってくれる人、理解してくれる人が見てくれているだけで力が湧いて来る。

 今窮地に立たされ誰からも理解されず途方にくれている人もいらっしゃるかもしれない。孤独を感じ「誰もこんな自分を理解してくれない」と思うことがあるかもしれない。しかしイエスキリストはずっと見ていらっしゃる。流した涙も、泣きながら祈った姿も、もうダメだと思って多量の眠剤を飲もうとした姿も。

 昨日の新聞で小田急線に飛び込んだ親子の記事を読んだ。飛び込む前に何度もためらい1時間も行ったり来たりしている様子が防犯カメラに写っていたとのこと。この様子もイエスキリストは見ていたのだと思う。時々「死にたい」と思ってしまう自分だが人の死にはものすごく心が痛む。そして「神様を信じるまで絶対に死なないで」という気持ちになる。矛盾しているけどこれが本心である。

 何れにしてもイエスキリストという方がクリスチャンであろうとなかろうと全ての人を救いたいという優しい眼差しで見ておられる、ということを書きたかったのである