新任教師として中学校に赴任して中学の理科全般、技術家庭などを受け持ったが高等学校の物理も担当していた。当時は物理Ⅰ、物理Ⅱという講座名だった。物理Ⅱは選択科目設定してあり理系の大学進学を考えている生徒、また医歯薬系の受験生が受講する科目と位置付けられていた。最初の年の物理Ⅱ受講者は医学部進学希望が3名、そして歯学部希望が1名いた。
歯学部進学希望の女子生徒Mさんはとても明るく元気の良い子で人一倍やる気のある生徒さんだった。最初の授業でオリエンテーションを行い2回目で彼らの実力がどの程度なのかを知るためにプレースメントテストを行った。そこまで難しくない内容だったが殆どの生徒さんが物理Ⅰの内容を8割程度理解している様子だった。しかし、このMさんが少しよくなかった。よくなかったというか非常に悪かった。物理Ⅰの内容をほとんど理解していない様子。Mさんは東京出身、家もそこまで離れたいないということもあり長期休暇(夏休み、冬休み、春休み)は実家に帰省している私もMさんも共に同じ教会に出席していた。そんなこともあり彼女は物理を担当する前から顔見知りではあった。ご両親が歯科医で彼女も後を継ぐために歯学部受験を考えているとのこと。が、現役で歯学部はかなり厳しい状況だった。
物理だけならなんとかなったかもしれないが数学も英語も深刻な状態。そこで、寮制のメリットでもある夜間補習を週5日行うことにした。毎日わずか2時間ではあるが徹底的に物理を教えようとした。ちなみに彼女の実力、時速を秒速に変換する何でもない問題で「Mさん、1時間は何秒?」という質問に対して「少し待ってください」とじっと下を見て考えている様子。少し時間が経ったので「難しかったかな?」と聞くと「しっ!」と叱られてしまった。彼女は自分の腕時計を見ながらずっと数えていたようだった。これがMさんの実力と真面目さ。
しかしやる気だけは人一倍ある彼女は卒業までこの補習を受け続けた。現役受験の時は全て不合格。どこかに彼女の真面目さとやる気を評価してくれる大学はないかな?などと考えていた。
Mさんが卒業して最初の夏休み、地元の教会で彼女にあった。合格させられなかった負目もあり私の方からは声を掛けづらい状況だったが彼女の方からいつもの屈託のない笑顔で
「先生、お元気ですか?私決めたんですよ」と切り出してくれた。
「決めたって何を?」
「私浪人して予備校に通っていたんですけどやはり合わないなって思ったんです」
「合わないって、予備校が?歯学部が?」
「いえ、日本が」
「…」
「で、私留学することに決めました。来週日本を発ちます。」
「そ、そうか。そ、それはよかった。」
本音をいうと「日本でも難しいのに言語のハードルをあげて渡米するってどういうこと?」という気持ちを持ってしまった。大丈夫かな、と心配する教師のことなど意に介さず結局彼女は渡米し留学。4年ぐらい経った夏休み。私は数名の先生方とアメリカを2週間キャンプしながら旅をするチャンスに恵まれ、勿論途中で彼女との再会を果たした。何と彼女はE.S.L.をきちんと終了して正式に歯学部で学んでいた。その後e-mailというのが少しずつ流行りだしMさんとも時々連絡を取っていた。
その後Mさんはある牧師さんと結婚し歯学部ももう少しで卒業というところで家庭に入ることに。しかし、その後も彼女の歯科医になりたいという夢は消えることがなく、また大学で学び始め卒業を果たした。しばらくは歯科医としてクリニックで働いていたがお子さんが生まれて子育てに追われるようになりまた家庭に入って専業主婦に。
彼女が歯科医になっただけでも信じられない話なのだが、更に奇跡は続く。
お子様方が小学校に入るようになり、少し自分の時間が取れるようになったある日、ご主人(牧師)の教会に一人の見慣れない初老の男性が来られた。初めて来られた方だったのでこの牧師さんと牧師夫人(Mさん)はこの男性と昼食を摂りながら色々なお話ししたとのこと。聞けば、この男性は歯科医だったけど年齢的に仕事を続けるのが難しいと思い、自身のクリニックを手放して今は各地を旅行で回っているという。彼女が、自分も歯科医であることを告げると「私のクリニックを居抜きで買わないか」と言ってこられた。相場の90%offぐらいの価格だったらしい。結局彼女はそのクリニックを破格の値段で買取自分のクリニックを開院した。
人間的に考えた時に「絶対に無理」ということがある。確かにあると思う。世の中で受験指導で評価される先生というのは無理なものは諦めさせ余計な夢を見せずに、でももしかしたら到達できるかも知れないところに生徒を導き合格させられる人なのかもしれない。
しかし自分はそのような価値観が一番大切だとは思っていない。人の人生など高校生や中学生の実力、特に学力だけでは決して判断できないし、彼らを導く神の存在を無視して将来など決して考えられない。夢を持つ責任はあると思うがあまりにも現実だけで全てを判断してしまうと人を傷つけるだけで終わってしまうと思う。現にMさんは進学指導に定評のある先生が見たら10人が10人歯学部受験を諦めさせてであろう。しかし彼女はそのような先生に出会わなかったおかげで歯科医に慣れた、というか自分の夢を叶えることができたのである。
このような話は私の教員生活でいくつも経験したことである。目に見えない世界を意識して生徒を見たら救われる生徒さんもいるように思う。