就 職

 大学を卒業して母校に赴任することになった。今のように年内に決まるような組織ではなかったため2月になって内定をもらった。大学の研究室では「本当に就職できるのか」と教授が心配してくださり、当時は学生一人に対して30社ぐらいのオファーがあった(物理学科の場合)時代なので上場企業に就職するようかなりすすめられた。

 不安の中で祈りながら内定を待っていた時に通知が来たのでとても嬉しかったことを記憶している。一貫校ではあるが高等学校の所属で内定をいただいた。もともと教員志望だったが家庭の事情で家業を継がなくてはならなかった父がたいそう喜んでくれた。また母は「これから一人前の社会人になるんだから」と言って高価な実印を作ってくれた。

 月給の面では大学時代のアルバイトよりも下がることになるがそれでも憧れの恩師A先生(授業中よく寝てしまう物理教師)と同じところで働けることが嬉しかった。

 ところが赴任直前の3月後半になって「やはり中学校での採用になった」との連絡があった。これにはかなり落ち込んだ。中学校に所属しながら高校の物理は講師として教えることになるということだったので少しは救われたが、やはり高等学校の教員になりたかった。同級生の同じタイミングで採用されたもう一人の友人がいるが彼は高等学校の採用だった。浪人の時に味わったような敗北感に押しつぶされそうになった。が、後々この経験が自分を大きく成長させてくれる機会となった。

 というのも高等学校は新卒者に対して「現場で仕事を覚えろ」という体質だったが中学校はそうではなかった。愛情深く非常に怖かった教頭先生はじめ全ての先生方がたった一人の新規採用者を人愛深く育ててくださったからだ。注意されることも多く、叱られたこともあった。しかしいつも私のことを気にかけてくださり共に祈り励ましてくださる先生方によってクリスチャン教師として何を見て何を優先すべきかを徹底的に教えていただくことができた。これは自分の教師生活においてとても大きな祝福となった。

 「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。キリスト教では「変装して近づく祝福(Blessing to approach in disguise)」と表現する人もいる。要するに「これは嫌だな、こんなことが起こって困ったな」と思うことが実はその人の人生を豊かにする出来事であるかもしれない、のである。

 特にキリスト教界では「摂理」というものがあり、試練や苦しむ経験は神様による祝福のご計画であると理解する。その時はそう思えなくても後で振り返って「あぁ、これで良かったんだ」と思える時は来るのであまりつぶやず人生を歩むことが肝要であると教える。