関東にある系列中学校で働いていたときのこと。この学校で働くようになった経緯はまた別の機会に書くことにして、退職を希望していたのに異動になったことや、そもそも退職を希望するに至った出来事にためにひどく落ち込んでいる時だった。しかしこの時期、またこの学校で働かせていただいた経験の全てがいまの自分を励ましてくれる。
4月1日、仕事始め初日の教職員会議で、ある一人の生徒さんのことが報告された。三郷に住むEさんという中学3年生の女子生徒さんである。微熱が長期にわたって下がらず始業式までに回復する見通しが立たないとのこと。自分は2年生の担任なので自分の担当ではないと思いながらも何かとても気になり胸騒ぎをおぼえた。長期間の微熱。あることが思い出された。
自分の従兄弟のことだ。極端に体調が悪いわけでもないが微熱が続きだるさが取れない症状。病院に言っても「風邪でしょ」などと言われて風邪薬を処方されるも一向に改善の兆しがない。心配した両親(叔父、叔母)が私のかかりつけの医院が名医と評判だったのでそこで受診することに。病院ではなく所謂診療所だ。当時は非常に開放的で診察室で数名の患者さんが順番を待っている状態。流石に大人は奥の診察室に行くが子どもならみんなの前で聴診器を当てられお尻に注射をされる。そんな診療所だが腕は確か。当時三歳の従兄弟がこの診療所で診てもらうと先生が「これは少し厄介な病気かも知れない。紹介状を書くので日大病院に行くように」との指示。検査をしないとはっきりしないがおそらく「白血病」だとおもわれる、とのことだった。果たして大学病院で検査をしてみると本当にその病気だった。
そんなことが思い出されたのでこの中学3年生のEさんの微熱、風邪症状、だるさなどの報告を受けて嫌な予感が日に日に募っていった。それから2週間後、彼女は検査のために入院し、ほどなくして「白血病」との診断を受けた。胸が締め付けられるように痛くなった。現在は多くの効果的な治療法が見つかり、二十歳未満の寛解は8割以上ときくがその頃(およそ30年前)はそうではなかった。従兄弟も5歳で亡くなった。そのような嫌なことしか連想できず真剣に祈る毎日だった。書店に行けば白血病関連の本を買い求め、医師になった友人たちにも色々と相談した。まだ一度も会ったことがないEさん、しかし学校にいれば私の数学と理科の授業を受けるはずの生徒さんである。
自分一人でも、また彼女の同級生とも祈った。聖書に出てくるイエス・キリストという方はその公生涯において実にたくさんの人を癒された。目の見えない人、耳の聞こえない人、喋れない人、足が不自由な人、長年出血に悩む女性、悪霊に取り憑かれ自分で自分を引き倒し傷つける人等々。病人だけではない亡くなった方を生き返らせる力も持っている。だから私たちクリスチャンは同じ癒しを求める祈りをささげる。
Eさんは入院してから非常に辛い治療を受けそれに耐えていた。そしてその甲斐あって2学期のある日、彼女は学校に戻ってきた。初めて見るEさん。とても明るく闊達でいつも周りを笑わせている、それが私のEさんに対する第一印象。髪の毛さえ見なければ彼女が大病を患っていることなど誰も分からない。彼女は「初めましてEです。よろしくお願いします。」と初対面の私に挨拶に来てくれた。彼女の明るさに助けられて「理科は何とかなるけど数学はかなり進んだからこれから特訓だよ。高校受験が控えているんだから。」と大笑いしながら言ってみた。「先生、ありがとうございます。元気なときは毎日補習してください。無理かも知れないけど、私高校に行きたいんです。」と彼女。「無理かも知れないけど…」心に刺さる言葉だった。泣きそうになった。私の曇った表情を読み取ったのか「じゃ、早速今日から補習してください。私、メッチャ頭悪いですから焦りますよ(笑)」と言って去っていった。
実際その夜から補習をした。治療の合間に学校に戻っているため今回学校に居られるのは2週間だけ。とにかく毎日補習をした。体調が良さそうな時はフルに。でも表情がすぐれない時は15分ぐらいやっておしゃべりをして終わる、そんな感じだった。予定の2週間が経ち彼女はまた病院に戻って行った。そしてまた治療がひと段落すると学校に来る、ということを繰り返した。そして病院での治療が落ち着いたところで自宅療養に切り替え今度は自宅と学校で過ごすようになった。自宅にいるときも今まで同様補習を続けようと考え週に2,3回彼女の家を訪問することを提案してみると快諾、というか非常に喜んでくれた。
本当は数学の補習などどうでもよかった。ただ厳しい現実を直視しているEさんに寄り添いたかった。彼女の不安や怒り焦りや寂しさ、など全てをぶつけてほしいという気持ちで家庭訪問を続けた。学校から彼女の家までは高速を使えば2時間弱で行けるのでそれほど負担でもなかった。
そしていよいよ高校の願書を提出する時期を迎えた。彼女は私が働いて居た前任校に進学したいと希望した。勿論全寮制。しかも彼女の家から900kmぐらい離れている。今までのように自宅と寮の二重生活が容易にできる距離ではない。彼女のお母様は本人の希望を叶えてあげたいと言いながら本心は心配なので手元に置きたいとのこと。結局彼女はその900km離れた系列の高校に合格し進学を果たした。色々な事情が考慮され彼女のこととは全く別の理由で私も同じタイミングでその学校に異動することとなった。不安を抱えながらも毎日彼女の様子をお母様に報告できることは双方にとって良いことだった。何度か体調を崩すことはあったがそれでも明るく前向きに生活することができた。
当時の記憶がはっきりしないが、病院で一通りの治療を受けたあと主治医から「やれることは全てやりました。これからどうなるかは分かりませんがかなり高い確率で再発することが考えられます。」とお母様は言われたそうだ。そしてそれから大豆タンパク(曖昧な記憶)を用いた食餌療法を行なったと聞いた。その効果なのか本人の免疫力なのか、また周りの祈りの力なのか。恐らく神様が彼女を目的があって生かしてくださったのだと思うが兎に角彼女は高校を卒業することができた。そして系列の大学(看護学部)に進学しクリスチャンナースとして人々に奉仕するようになった。
現在結婚もしてお子様を育て上げ元気に生活しておられる。こういうことを奇跡と言うのだろう。ある人は難病でも癒され、ある人は生涯を終えられる。
旧約聖書にヨブという人がいる。彼はすべてのものを与えられまたそれらが一瞬で失われる経験をした。その時に「主は与え、主はとりたもう。主の御名はほむべきかな」と言っている。何故あの人が癒されなかったのか?という疑問を持っている。何故なのかを教えて欲しいところだが神の摂理を全て理解することはできないと言われている。やがてイエスキリストがもう一度この地上に戻って私たち人類を救ってくださり天の御国に行った時にその理由を教えてもらえる。
理由は分からないが今生かされていることには何か意味があるようだ。私のように「死にたい」と切望するような人間も今は生きることが要求されている。「生きたくても生きられない人がいるのだから、死のうなどと思わないで生きなさい」という人がいる。恐らく死にたい人の気持ちを理解したことがない人なのだろう。しかし生かされている以上何か意味と目的があるのかも知れない。それがどんなに険しい茨の道でも。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 Ⅰコリント10:13
There hath no temptation taken you but such as is common to man: but God is faithful, who will not suffer you to be tempted above that ye are able; but will with the temptation also make a way to escape, that ye may be able to bear it.