ホームルームパーティー
ゆっくりと、しかし確実にその8トントラックは路肩に避けた自分の車に近づいてきた。車体を回転させながら。「頼むからこの車にぶつからない様に!」と心の中で祈った。本当にゆっくりと時間が流れた。
18年前のちょうど今頃、私は交通事故を経験した。物損事故は2回ほど経験していたが人身事故は初めて。この日は2学期期末試験の最終日、木曜日である。月曜から続いた試験も4日目の木曜日で終わる。この木曜日は午前と午後で全く性格の違う1日になる。午前は試験のために必死に勉強に向かう生徒たちも午後は、夕方から始まるホームルームパーティーのために意気揚々準備に取り掛かる。ホームルームパーティーというのがなかなか理解されないかも知れないが、教室に学級のメンバーが集まりゲームや食事、出し物などをしながら楽しい時間を過ごすというもの。自分はこのパーティーが大好きで毎回全力で取り組む。夏は生徒を海に連れて行き海水浴を楽しみ夕方からBBQを楽しんだ。2学期末は雪も降るほど寒いので教室でクリスマスパーティーをすることにしていた。高校3年生なので学級で行うパーティーは今回が最後になってしまう。3学期は卒業前に後輩たちが色々な催し物を用意してくれる。ホームルームパーティーは基本的に生徒が立案準備を担当するが試験終了直後に行われるため最終の準備が不十分になってしまうことが多い。そのため木曜日の午後は最終準備で結構忙しくなる。この日もあと1時間半ほどでパーティーが始まるという頃になってひとりの役員が血相を変えて「先生、風船を準備し忘れました。今から買ってきてもらえませんか?」と言ってきた。外はすでに雪が降っており積もり始めていた。いつもなら車で20分ほどで買い物ができる隣町に着くがこの雪だともう少し時間がかかりそうだ。本音を言えば風船を使うゲームを他のものに置き換えてそれは省こう、と言いたかった。が、彼女はこのゲームを何日もかけて考えたらしい。何としてもこのゲームをしたかった様なので「分かった。今買ってくるから少し待っていて。」と伝え急いで買い物に走った。かなり雪も強めに降ってきた。隣町までの行き方は3つのルートがある。1つは景色はいいが遠いのでパス。もう一つは平坦な道が続くけど若干距離が長いルート。もう一つは最短ルートだがアップダウンの多いルート。しかもこのルートの途中には地元の人しか分からない凍結ポイントがある。ちょうど冷たい風が吹き抜けるところらしく50mに渡り夕方から凍結する。冬場はこのルートを避け2番目のルートを使うことが多いがこの時は時間が無かったので、ついつい最短ルートである「最高に危険なルート」を選択してしまった。隣町まであと半分という場所にこの凍結ポイントがある。いつもなら凍結している様子は目視できるが生憎この日は雪なので凍結しているポイントが見えない。自分の車はこの坂を登る途中で凍結ポイントを通過する。が、その時坂の上を見てみると8tのトラックが降りてきた。しかも少しスピードが出ている。少し嫌な予感がしたので雪道は登り優先であるが敢えて上りの自分が車を路肩に寄せて止まった。トラックはスピードを落とすために下り始めてからブレーキを踏んだ様子。自分も大型を運転するが雪の下り坂でブレーキを踏むなんて考えられない。しかもトラックがブレーキを踏んだのが凍結ポイント。「あぁ、危ない」と思った次の瞬間にトラックは制御不能状態になっていた。慌てる運転手の顔がはっきり見えた。逆ハンだ、と届かない声で叫んだ。逆ハンを知らないのか、焦っただけなのか、は分からないが勢いよくこちらに向かってくる。「もうだめだ」と思った次の瞬間トラックが自分の脇をすり抜けた。と同時に回転してトラック後部が私の車に遠心力をつけて思いっきりぶつかった。しばらく意識がなくなり、呼吸ができなくなった。
交通事故の記憶
「大丈夫ですか?」と大丈夫でない自分に他の通行人が声をかけてくれた。運転席はドアがあかない。助手席を確認しようとするが前が潰されているので下半身が動かせない。ようやく後ろの座席から人が入ってきてくれた。このころやっと自分でも呼吸している意識が戻った。とにかく首、足、特に胸と腹部に強い痛みを感じていた。誰が連絡してくれたのか警察車両がきてくれた。どうでも良いことかもしれないが、自分には風船を買う使命があるのでそのことが気になって仕方なかった。警察がすぐに救急車を手配した。その間2回ほど嘔吐した。痛いのと気持ち悪いのとで警察の質問にも十分に答えられなかった。今の自分に必要なのはこの痛みと吐き気から解放されて風船を手に入れること、それしかなかった。しばらくして救急車がきた。すぐに名前や年齢を聞いて救急車に乗る様促された。「首を打っている可能性がありますので固定する担架に乗ってもらいます」と言われた。ここで急に思い出した。今は病院に行っている場合ではないことを。「病院にはいけません。担架にも乗りません。」と駄々っ子の様に言った。ここから警官と救急隊員の説得が始まる。「あなたは頭を強打している可能性があります。先ほども嘔吐していましたがこれが事の重大さを示している証拠です。救急車に乗って病院に行かなければあなたは今晩命を落とすかもしれないんですよ。」と言われた。そうかもしれない。その自覚はあった。しかし乗れない。風船のことが理由ではない。自分にはこの救急車に絶対に乗れないとても大きな理由があるのだ。「その、病院に行けないほど大事な理由ってなんですか?命と引き換えにするくらい大事な理由って何ですか?」とかなり強く聞かれた。どうせ理解されない、深い深い理由があるけど絶対に理解されない。でも言うしかないので意を決して言ってみた。「パーティーです」。一同ポカーンとしていた。『はぁ?パーティー?そんなのいつでもいいじゃないですか。」「いゃ、今日じゃないとダメなやつです。」その頃、この地方では今でいう婚活パーティーみたいのものがあった。過疎の地域なので人口を増やすためなのか、人の流出を防ぐためなのか分からないがいたるところにあった看板、「あなたもタイ人と結婚しよう!」という婚活パーティーの案内。どうやら警官と救急隊員はこのパーティーを連想したらしい。まさかホームルームパーティーとは思わないだろう。そんなもの一般的に認知されていないし。それからも何度も説得されたが絶対に救急車に乗らないと拒み続けた結果「本当に死んでも知りませんよ」と言われながら「乗車拒否証明書」という書類にサインをさせられた。そして救急隊員は去って行った。警察も現場検証を終えて帰って行った。私は車をレッカー移動してもらい同僚に迎えにきてもらい風船を買うことなくそのまま学校に戻りホームルームパーティーに向かった。ちなみにこの時の保険会社が双方とも「損保ジャパン」だったがこれがひどい対応だった。内容は書けないがこれだけの事故であったにも拘らず保険金が怪我に対するものだけで車の物損に対しては支払わないと言ってきた。ご承知の通り損保ジャパンは金融庁からの指導を受け保険金不正未払いなどで業務停止などの指導を受けた。自分の事故もその後3度にわたって第三者が入って調べやっと交渉に応じる様な状態だった。今は業務姿勢も改善しているかもしれないが本当にひどい会社だったのでこの事故が一応の解決をした後すぐに別の保険会社に加入した。今でも損保ジャパンに入っている人にあうとこの時の話をして「損保ジャパンはすぐに解約したほうがいいよ」と言っている。
パーティーにて
生徒たちは他の教員から自分が事故に遭ったことを知らされている様だった。だから自分が教室に行くと皆沈んでいたし活気がなかった。そこに事故の当事者が現れたから生徒たちは驚いていた。「大丈夫だんですか?病院に行かなかったんですか?」なかには「死んだと聞きました…」って誰がそんなことを言ったんだ。兎に角例の女子生徒のところに行き「ごめんね、風船が買えなかったんだ」と謝罪した。風船は他のホームルームが分けてくれたから大丈夫だったとのこと。少し安心したが、じゃぁこの事故は何だったのだろう?と思ってしまった。私は声もほとんど出せないので教室の片隅でのけぞる様に座って彼らの楽しむ様子を見ていた。途中とても面白い場面が何度もあった。そもそもパーティーなのだから笑いはつきもの。しかし今の自分には笑うことは全身の痛みに直結する。「頼むから笑わせないでくれ」と言いたくなった。何故こんな思いまでしてこのパーティーに参加しないといけなかったのか。それには自分だけが知っている別のシナリオがあったからだ。 イエスキリストの誕生を思う(その2)に続く