感謝

泣きたくなる時

毎日祈り続けている。自分の祈りは先ず家族のこと。子どもや妻は勿論のこと両親、義理の両親、兄弟、義兄弟など広範囲にわたる。家族や親戚のことを祈るだけで30分以上かかる。その後は病のとこにある方、心の癒しを必要としている方のために祈り次に全国また世界で献身的に働かれる牧師先生とそのご家族のことを祈る。次が自分を支えてくださる方々、かつて一緒に働いていた方々のことを祈る。その後は卒業生を中心に祈り最後に悔い改めの祈り、そして自分個人の願いを祈る。かなり長い時間を要する祈りなので途中で区切らないと祈りきれないこともしばしばである。毎日同じ様に祈るのであるが、感極まってというか感動して涙が流れてしまうところが何箇所かある。なるべく泣かない様に気をつけているが、特に感謝についてはその感情を抑えられなくなってしまう。先ずは神様に対する感謝。自分の様な人間をずっと忍耐して育み助け支えてくださるそのご愛に胸が押しつぶされそうになる。こんな自分のために十字架にかかってしまって本当に勿体無いし申し訳ない、という気持ちになる。また両親のことを祈っているときも胸が締め付けられる。溢れる愛情を注ぎ続け、自分たちが空っぽになるまで与え続けた人生。そして子育て。そんな途轍もない愛情を注いで貰ったのになぜ自分だけはまともに育たなかったのか。両親の子どもは姉と弟の2人でよかったのでは無いか。自分の存在が両親の価値を低くしている気がして本当に申し訳なくなる。そしてそれぐらいダメ人間な自分に対してまだ愛情を注いでくれる両親に心から感謝するものであるし、そんなことを考えながら祈ると涙が溢れてくる。

母がいなくなった事件

そんな両親のことを考えながら祈る時、自然と思い出すことがある。今から3年ほど前のことであるが母がいなくなってしまった事件である。3年前の春、父が硬膜下血腫で手術を受けた。超高齢という事もあり心配になり術後お見舞いに行った。実家からは電車に乗って行かないといけないほどの距離にある病院である。2日に渡って父を見舞い3日目にまた自分は広島に帰った。毎回のことで恥ずかしいのだが、自分が広島に戻る時、空港まで電車を利用するのだが最寄り駅まで両親が送ってくれる。実家から3分ぐらいの距離だが足腰の弱っている両親に駅まで送ってもらうのも忍びない。その時も父が入院しているので母が駅まで送ってくれた。母は認知症がひどいので駅まで送って実家に帰れなくなるといけないから、玄関先で良いと何度も行ったが結局駅まで送ってくれた。電車に乗って出発する自分を線路脇から手をふって送ってくれた。この瞬間が毎回苦しい。胸が締め付けられるのである。年取った両親を放って自分は仕事に行くことが重罪の様に感じる。電車の中でずっと両親のために祈り続けた。羽田空港についた頃、姉から電話があった。母が家にいない、とのこと。自分が実家を出てから、姉も心配になって父の見舞いに行こうとし、実家で母を拾ってそのまま病院に行こうとしたが実家に母がいないという。駅まで送ってくれておそらく実家に帰ったはずだと説明した。どこを探しても見つからないので、仕方なく姉は車で父の入院する病院に行った。するとあろうことか母が父の病室にいたという。母が1人で行ける場所では無い。降車する駅も分からないし、第一駅からの道順もわからないはず。しかしどうやったのか分からないが母は父の病室にたどり着いたのである。勿論母は姉から散々叱られた様だ。何か家族とか夫婦って引き寄せ合うものがあるのかもしれない。何故母が病院に行けたのか未だに不思議である。

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