ダビデ
ダビデという王様がいた。彼の少年時代の活躍はよく知られている。ひとりでゴリアテに立ち向かい彼を倒した英雄である。その後ダビデはイスラエルの第二代王になる。彼はある日の夕暮れに屋上に上がって街を見下ろしていたところ美しい女性が行水をしている姿をみる。そして彼女に一目惚れしたダビデは彼女を召し入れ妊娠させてしまう。この女性はバテシバという名でウリヤというヘテ人の妻であった。ダビデは人妻を妊娠させてしまいこれを隠そうと策を練る。戦地で戦い家来もいるウリヤを一度家に戻してバテシバと数日過ごさせようとした。しかしこの作戦は失敗。ウリヤは非常に真面目で誠実な人間であったため、家来たちが戦っている最中に自分だけ家に帰って妻と過ごすことは出来ないと言って王の家の入り口までは来たが自宅には戻らなかった。作戦が失敗したことを知ったダビデは次の作戦に移った。今度はウリヤを戦火の最も厳しい最前線にウリヤを派遣し戦死させたのである。この作戦は成功した。そして正式にバテシバを自分の奥さんとして向かい入れることになった。ある日、預言者ナタンという人がダビデのところにやって来る。そして奇妙な話を突然始めた。
主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。
サムエル記 下 12:1-5
唐突ではあったがこの話を聞いてダビデは怒った。その怒ったダビデに対してナタンはこう言う。
ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。
サムエル記 下 12:6,7
この罪の指摘を受けてダビデは深く反省し悔い改めるのである。
老人の怒り
職場の環境は非常に良い。津軽弁が分からないので色々と嫌な思いをさせてしまっていることは心苦しいがそれでも自分に対して気を使ってくれる。患者さんから殴る勢いで叱られる事も間々あるがそれも仕方ない事だと思って受け入れている。しかし、どうしても自分が苦手意識を持ってしまう同僚がいる。元々は自分に仕事を教えてくれた人であるが、自分の飲み込みが悪いせいかイライラすると自分のことを叩いてくる。昔の自分であったら完全にやり返していたと思う。もう70歳を超えた人なので腕力なら負けないと思う。でも今は全く牙を抜かれてしまっているので怒る気力がない。というか怒る感情を忘れてしまったかもしれない。その代わりにとても悲しい気持ちになる。顔をあわせれば何かしら突っかかってくるのでなるべく接点がないように気をつけている。もともとスタンドプレーが多くチームの中でも自分勝手に動いて連絡をしない存在なので仲間内からも毛嫌いされている。今日は久しぶりにこの人から文句を言われた。自分は透析の患者さんが終わるのを待っていただけである。治療が終わって自宅まで送り届けるのが仕事なので当たり前のことをしているつもりだったが、この人の癇に障ったらしい。この人は患者さんは全員自分で送りたいと思っているようで自分が患者さんを待つことで、お客さんを取られた客待ちのタクシーのような気持ちになってしまったようだ。そこですごい勢いで怒って来た。なぜ怒るのか、協力してやれば良いのでは無いかと思った自分にはこの人の怒りの意味がわからなかった。元々自分に対して不満がありそれが爆発したのだとも思う。いずれにしてもすごい勢いで怒られた。理不尽ではあったが「すみません」と謝罪してその場を離れた。
それはあなただ
昨日も透析患者さんから、迎えにくるのが遅いと烈火のごとく怒られたばかりである。この歳で叱られる、というよりキレられるのは本当に辛い。津軽の人って切れやすいのかな?と思ってしまう。患者さんにキレられたのは今回で5回目である。普通は注意から始まって少しずつエスカレートしていくような気がするが津軽にきて怒られたのは全ていきなりのフルスロットルだった。ゆとりがないのかな?何れにしても今日の送迎のことで70歳の人に怒られた時は本当に悲しかった。が、同時に全然罰のことが頭をよぎった。この理不尽な70歳の人、これこそ今までの自分ではないかと思ったのである。まさに神様から「それはあなただ」と言われたようの気がした。自分は正義感が強いわけではないが、生徒第一主義なので生徒不在の意見を言ったり自分の保身や自分の評価をあげるような発言を決して許さないところがあった。そんな人間が教頭をしていたから現場の先生方は非常にやりにくかったとおもう。生徒のために何かをするのではなく、私から叱られないように何かをするようになっていた。表立って反対意見をいう人はあまりいなかったが影では凄く嫌われていた。その雰囲気が色々なところから感じられた。自分は歓迎されていない、自分の存在が先生方を萎縮させている、そのような雰囲気が随所に現れていた。今自分がこの70歳の男性を嫌な存在で、この人がいる職場で働きたくないと思っているその気持ちを、かつての同僚に抱かせていたことを気づかせられた。かつての自分の姿を見せつけられたことは、70歳の人から理不尽な怒りをぶつけられたこと以上に辛かった。嫌われ者、これが自分である。
「町一番の賢者と町一番の嫌われ者」 河原 久牧師 講演会第7回
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