その1
今朝、聖書通読で最初に読んだのがルカによる福音書18章。
このところ、信じて祈ることの難しさを痛感するようになり祈りが上手に進まなくなっていた。長い時間をかけて祈っている割には、約束の聖霊様が祈りを導いてくださっている実感もなく「これで良いのかな?」と不安になりながら祈りの時間を過ごしている。そこにきて今日の御言葉である。やもめと裁判官のたとえ話。
1また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 3ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 4彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 5このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。 6そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。 7まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 8あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
ルカによる福音書18:1-8
自分の悩みを分かった上で神様は最良のタイミングで最も必要な御言葉を与えてくださった。
その2
今日の通読はヨハネによる福音書3章までだった。福音書は1章がとても長いので、これまでより2倍近くの量がある。もっと減らしてゆっくり読んだ方が良いことを、先日「キリストへの道」を通して教えられたが、とりあえず次回から見直すことにして今回の通読は今まで通り1日10章のペースで進むことにした。福音書に入った途端に時間がかかるようになりノートを執りながら読んでいることもあって1時間以上かかる。しかし、毎回新しい発見があり非常に恵まれている。おそらく殆どの人が知っていることだと思うが、自分は今日はじめて気づいたことがある。今まで何度も読んでいるのに何故か気づかなかったことである。
ヨハネ3章といえば、有名な3章16節がある。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
ヨハネによる福音書3:16
多くの人が暗唱し、力づけられてきた御言葉である。で、発見というのは何かというとイエス様がこの言葉を語ったのはニコデモに対してであった、ということである。自分の勝手なイメージで、イエス様の取り巻きに対して語ったのだと思っていたがそうではない。自分の身分を隠し夜中にお忍びでやってきたニコデモとの問答の途中でこれを語られた。アリマタヤのヨセフなどと並んでイエス様はこのニコデモに対しても大きな可能性を感じていたことだろう。「あなたはイスラエルの教師なのにこんなことも分からないのですか?」などとたしなめるような場面はあるがこの問答でニコデモの一心に求める純粋な信仰をすぐに見抜かれた。そしてクリスチャンライフを送るのに必要かつ十分なことをここで全て教えておられる。ニコデモを通してその他の議員たちに福音が伝わることを心から願っていたのかも知れない。聖書が読めなくなる時代が間も無く来るのかも知れない。御言葉がなくなれば恐らく自分は生きて行けないと思う。その日がくる前に御言葉を心に蓄えなくてはいけない。
Midnight Cry 主、来たりたもう
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