学ぶ意味再考

長男と

長男は中間試験が終わり2学期後半の授業が始まった。うまくいった科目もあればそうでなかった科目もある。ここにきてやっと「少し勉強を教えてくれないかな?」と言ってくるようになった。自分には教えるほどの力は無い。本を読んであげることはできないが本を読む方法を教えることはできるかもしれない。これも怪しいのだが・・・。

何れにしても、今晩は「何故学ぶのか」というテーマで話し合う計画をしている。明日は「具体的な学習方法と心構え」について。とにかく直ぐにでも成績を伸ばしたい気持ちを持っているので「精神論」的なことはどうでも良いと思われるかもしれない。しかし、学習は学齢期の今だけの話では無い。生涯に渡って続けることで長丁場なので「精神論」を明確にしておかないと息切れしてしまう。

学ぶ意味

学校の教科目だけではない。人間関係も生きる術も全て学びである。時々これらが面倒になり全てを放棄したくなる。積極的に学びたいという気持ちがあるときは良いがそうで無いときにも学び続けるためには「学ぶ意味」を考えておく必要がある。

自分自身がクリスチャンなので一般の価値観とかなり異なることを承知している。他の考えや価値観を否定するものではなくあくまでもクリスチャンの父親としての考えである。
学ぶ意味
・自分自身をイエスキリストに似るものと成長させるため
・能力の無いものが力をいただくことで神様の力がどれだけ凄いかを周りの人に知ってもらうため
・学びの向こう側にある伝道地(イエス様のことをよく知らない方がいるところ)に行くため
例えば、狭い意味での学びを例にして受験勉強を考えてみる。医師になりたい、医療現場が自分の伝道地だと思い、白衣を購入して診察室にいれば怪しい者として捕まってしまうだろう。医療現場が自分に与えられた伝道地と考えるなら、まず医学部医学科に進学しなくてはならない。6年間の学びを経て国家試験、そしてインターンを経て正式な医師となれる。医学部に行くため、卒業するため、国家試験に合格するため学ぶが、それはその先にある伝道地に行くためである。そして与えられた伝道地にはかねてから準備されていた出会うべき人たちがいる。その人たちにイエス様を伝えるのである。もしも伝道地に行く前にその道を諦めてしまえば準備されていた方々との出会いはない。あるかもしれないが恐らくない。

今日、そんな話を長男にしてみようと思っている。果たしてダメ父の思いは伝わるのか。

『饅頭のような聖書の22の話』第15回「エルサレム問題を聖書から見る」10月17日 講師:河原 久

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