ネヘミヤの祈り

祈り

長い間祈りがこたえられないでいると「この祈りは神様のご計画とは違ったのかな?」と思うことがある。しかしそのような時にも「変化とか回転の影というものが無い」神様は小さき者の取るに足らない祈りにも誠実に耳を傾けてくださる。そのことを痛感することがあった。

今朝読んでいたネヘミヤの祈り。捕囚後の荒れたエルサレムに心を痛めたネヘミヤが王に自分の悩みを訴える前からの祈りを見ていくうちに大切なことがたくさん含まれていることに気づく。

好機を求める祈り

ネヘミヤ4ヶ月間、王に願いを申し出る絶好の機会を待った。その間、 彼の心は重く悲痛であったが、王の前では努めて快活にふるまっていた。 豪華けんらんたる宮廷では、すべての者が快活に幸福そうにしていなけ ればならなかった。王に仕える者の顔には、心配の色が影を落としては ならなかった。しかし、ネヘミヤが王の前から退いていた時には、人の 目にこそ見えなかったが、多くの祈りと告白と涙が神と天使たちに聞か れ、目撃されていた。
国と指導者電子版p440 総督ネヘミヤの活躍

祈りが強められる経験

ネヘミヤは祈っているうちに、信仰と勇気が強められた。彼の口には 聖なる抗議が満たされた。彼は今、神の民が神に帰ったにもかかわらず、 弱いままで圧迫されているならばどんな不名誉が神に投げかけられるか を指摘して、神が約束を成就なさることを求めた。「しかし、あなたがた がわたしに立ち返り、わたしの戒めを守って、これを行うならば、たと いあなたがたのうちの散らされた者が、天の果てにいても、わたしはそ こから彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ所に連れて来 る」(申命記 4:29―31参照)。
国と指導者電子版p439 総督ネヘミヤの活躍

短い祈り

エルサレムの状態を語ったことは、偏見をいだかせずに王の同情を呼 び起こした。「それでは、あなたは何を願うのか」という次の質問は、ネ ヘミヤが長い間待っていた機会であった。しかし神の人ネへミヤは、ア ルタクセルクセス王よりも大いなる神の指示を仰ぐまでは、あえて返事 をしなかったのである。彼は王からの援助を必要とする、聖なる任務を 成し遂げなければならなかった。そして彼は、王の承諾を得てその援助 を受けることは、彼がこの事をいかに王に申し上げるかに、大いにかか わりがあることを自覚した。「わたしは天の神に祈っ」たと彼は言った(ネ ヘミヤ 2:4)。ネヘミヤはその短い祈りによって王の王のみ前に出て、 川の水を変えるように人の心を変えることのできる力を、自分の味方に したのである。
国と指導者電子版p441 総督ネヘミヤの活動

緊急の時にネヘミヤが祈ったように祈ることは、他の形式の祈りをす ることが不可能な場合に、キリスト者が用いることができる方法である。 人込みの中で労苦しながら仕事をしている人々は、神の導きを祈り求め ることができる。海陸の旅をする人々も、大きな危険にさらされる時に、 このようにして天の神の保護に身をゆだねることができる。突然難や危 機が訪れた場合には、彼を信じる忠実な者の呼ぶ声に答えて、いつでも 来て助けるとみずから約束なさったかたの助けを呼び求めればよいので ある。人はどんな環境、どんな状態のもとにあっても、悲しみと労苦に 圧倒され、あるいは誘惑に激しく襲われる時に、契約を守られる神の尽 きない愛と力に、確証と支持と援助を見いだすことができるのである。
国と指導者電子版p441 総督ネヘミヤの活躍

信じて祈る

自分の所属する教団のこと。19世紀初頭から盛んになりつつあった「再臨運動」。この運動が1820年代頃から熱気を増し1840年頃には米国を中心に一大ムーブメントとなった。超教派的に集まった再臨を切望する人たちが家を売り、土地を手放し仕事を辞めて再臨を待った。米国だけでもその数5万とも10万人とも言われている。実際には計算した日にイエスキリストは再臨しなかった。大失望に陥った集団はおおよそ4つのグループに分かれた。

1 再臨信仰を捨て元の教会(メソジストやバプテストなど)に戻ったり全く信仰を放棄した人々

2 再臨の「時」を算出する計算を間違えたと考える人々

3 イエスキリストは確かにこの日(1844年10月22日)にこられた。しかし目に見える形ではなく霊的な出来事として来臨された、と信じる人々

4 1844年10月22日、という日付に間違いはないが「出来事」が違っていた、と考える人々

以上の4つのグループである。

書物を読んで痛感する事だが、この再臨信仰を持った方々というのは「本気で」イエス様の再臨を信じていた。それが行動や生活に現れている。

「本気で」信じることが、自分にはできていないことを反省している。再臨はあると信じているが、今日或いは明日という緊迫感をもって信じてはいない気がする。また自分が祈る時に本気で神様を信じて祈っているかと問われれば「はい」と言える自信がない。疑っていることも多い。

ネヘミヤの祈りを通して、自分が祈る時に誰に対して祈っているのかをもう一度考えなくてはならない。全宇宙とその中のものを言葉で創り、いまもその言葉が生きており、その言葉を発した神様に対してイエス様の御名によって祈っていることをもう一度真剣に考えないといけない。

2022123 「一粒のからし種のようなもの」 安息日礼拝

 

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