宇宙一の愚かさ

昨晩のこと

昨日は木曜日だったので一週間に一度の楽しみである温泉に行った。が、何と定休日。直前に受験生から数学の質問を受けておりそれに応えて出発が遅れたので温泉ではゆっくりできない時間帯だったのでそれほどショックではなかった。帰り道で少し食材をなどの買い物をして家に戻った。

家の湯船にお湯をためてお風呂に入ることにした。最近寒くなったので湯船にお湯をはることもあるが、今まで殆ど湯船を使ったことがない。何故なら、湯船がただお湯をためることしかできず沸かすことができないからだ。沸かせないお風呂は非常に不経済だと思い今まで殆ど使わずシャワーだけで済ませていた。

でも昨日はゆっくり湯船に浸かって色々なことを考えていた。そして瞑想しながら祈っていた。祈ると言うかイエス様に話しかけるようなことをしていた。最近、よく「イエス様にお会いしたいのですがそれは無理ですか?み言葉を通して、ではなく直接お会いしたいのです」と祈る。図々しい祈りである。ちゃんと聖書が与えられているのに。しかし、無性に会いたくてたまらないのである。夢の中でも良いからお会いできないかと毎日お願いしているのだが未だに叶えられない。

愚かさ

お風呂で祈っているときに、急にイエス様の十字架が愚かなことだと思ってしまった。自分の両親のための十字架は心から感謝している。妻や子どもたちのための十字架にかかられたことをこの上ない喜びである。しかし、何故自分のような者のために十字架で死なれたのだろうか。イエスキリストは「もしもこの地上に私一人しか居なかったとしても十字架の犠牲を選ばれた」と言う言葉を知ってから急に「個人的な救い主」と言う意味の重みを感じるようになった。そして、何故自分のため、いや自分一人のために十字架の犠牲を選ばれたのか。理解できない。自分の罪深さやイエス様に背を向ける傾向などを知っているので、イエス様が全くの無駄死にをしたのではないかと思い悲しい気持ちになってしまう。もしかしたらイエス様は「宇宙一の愚かさ」を自分に示してくださったのか。イエス様に対して愚かなどとはとんでもないことであるが聖書にも「神の愚かさ」について書いてある。

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」
コリント人への第一の手紙 1:25 口語訳

申し訳ありません、と祈ることしかできなかった。お風呂でずっとイエス様の愚かさを考えながらただただ涙が止まらなかった。

われわれも、苦難におそわれる時、ペテロのようになることがどんなに多いことだろう。われわれは、目を救い主にそそがないで、波をみつめる。われわれの足はすべり、もりあがった波がわれわれの魂の上を越える。イエスは、ペテロが滅びるために、みもとにこいと命じられたのではなかった。イエスは、ご自分に従うようにわれわれを召しておいて、 そのあとでわれわれを捨てるようなことをなさらない。イエスはこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である」(イザヤ 43:1―3)。
E.G.White   各時代の希望 電子版 p388

ゴルゴダの丘(イエスが十字架にかけられた場所) – ジョセフプリンス (Joseph Prince) | New Creation TV Japanese

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