ヤコブの悩みの時5

はじめに

「ヤコブの悩みの時」シリーズも今回で終了

天使による守り

天の歩哨たちは、忠実に任務に服し、警戒を続ける。戒めを守る人々を死刑にするという全般的布告は、その時日を定めているにもかかわらず、敵たちは、ある場合には法令の時期を早めて、定められた時よりも前に彼らの命を取ろうとする。しかし、すべての忠実な人々の回りに駐屯している力強い警護者たちを通り過ぎることは、だれにもできない。なかには、町や村から逃げる途中に襲われる者たちもいる。しかし、彼らに向かってあげられた剣は、折れてわらのように力なく落ちる。また他の者たちは、軍人の姿をした天使たちによって守られる。いつの時代においても、神は、聖天使たちによって、神の民を救出し解放してこられた。天使たちは、人間の事柄に活発に関与してきたのである。彼らはいなずまのように輝く衣を着て現れた。彼らは旅人の身なりをした人間としてやって来た。天使たちは人間の姿をとって、神の人たちに現れた。彼らは、疲労しているかのように、昼ごろかしの木の下で休んだ。彼らは、人々の家庭でもてなしを受けた。彼らは行き暮れた旅人の案内をした。彼らは、自分たちの手で、祭壇に火を点じた。彼らは牢獄の扉を開いて、主のしもべたちを自由にした。彼らは天の武具を身につけて、救い主の墓から石を転がすためにやって来た。天使たちは、しばしば、人間の姿をとって、義人たちの集まりの中にいる。また彼らは、ソドムにやって来たように、悪人たちの集まりを訪れて、彼らの行為を記録し、彼らが神の忍耐の限界を越えたかどうかを決定するのである。主は憐れみを喜ばれる。それゆえに、真心から主に仕えるわずかの者のために、災害を抑制し、多くの人々の平穏な生活を引き延ばしておられるのである。神にそむく罪人たちは、自分たちがあざけり圧迫している少数の忠実な人々のおかげで、自分たちは生きていられるのだということに、少しも気づいてはいないのである。この世の統治者たちは知らないでいるが、彼らの会議において、しばしば天使が演説者であった。人間の目が彼らをながめ、人間の耳が彼らの訴えを聞いた。人間のくちびるが彼らの提案に反対し、彼らの勧告をあざけった。人間の手が彼らを侮辱し乱暴を働いた。議会や法廷において、これら天の使者たちは、人類歴史に精通していることを示した。彼らは、最も有能で最も雄弁な弁護者よりも巧みに、圧迫された人々のために訴えることができたのである。彼らは、神の働きをはなはだしく遅延させ神の民を非常な苦しみに陥れるような策略を挫折させ、害悪を阻止した。危機と苦難の時に、「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる」のである(詩篇 34: 7 )。神の民は、熱烈な渇望を抱いて、来たるべき彼らの王のしるしを待望する。「今は夜のなんどきですか」と、夜回りが問われると、なんのためらいもなく「朝がきます、夜もまたきます」と答える(イザヤ 21:11、1 2 )。山頂の雲間に光がきらめいている。やがて、主の栄光があらわれる。義の太陽がまさに輝き出ようとしている。朝と夜がともに近づいている。それは、義人には、永遠の昼の開始であり、悪人には、永遠の夜の幕がおろされる。

神の民の勝利

祈りのうちに神と格闘している者たちが、神の前に嘆願していると、見えないものから彼らをさえぎっていた幕が、ほとんど除かれたように思われる。天は、永遠の日のあけぼのに輝き、「あなたがたの忠誠を保ち続けよ。援助は与えられる」と言う言葉が、天使の歌のメロディーのように耳に聞こえる。全能の勝利者であられるキリストは、ご自分の疲れた兵士たちに、永遠の栄光の冠をさし出される。そして、彼の声が、開かれた門から聞こえてくる。「見よ、わたしはあなたがたと共にいる。恐れてはならない。わたしは、あなたがたのすべての悲しみを知っている。わたしは、あなたがたの悲しみをになった。あなたがたが戦っている敵は、わたしがすでに戦った敵なのだ。わたしはあなたがたのために戦った。そして、あなたがたは、わたしの名によって、勝ち得て余りあるのである。」尊い救い主は、われわれが助けを必要とするちょうどその時に、助けをお送りになる。天への道は、彼の足跡によって清められている。われわれの足を傷つけるとげは、どれも彼の足を傷つけたものである。われわれが負わせられる十字架は、すべて、われわれに先だって彼が負われたものである。主は、魂に平和をもたらすための準備として、争闘が臨むことを許されるのである。悩みの時は、神の民にとって恐ろしい試練である。しかしそれは、すべての忠実な信者にとって、上を見上げ、主をとりまく約束のにじを信仰によって見る時である。「主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。『わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。・・・・あなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、主である。その名を万軍の主という。わたしはわが言葉をあなたの口におき、わが手の陰にあなたを隠した』」(イザヤ 51:11―16)。

「それゆえ、苦しめる者、酒にではなく酔っている者よ、これを聞け。あなたの主、おのが民の訴えを弁護されるあなたの神、主はこう言われる、『見よ、わたしはよろめかす杯をあなたの手から取り除き、わが憤りの大杯を取り除いた。あなたは再びこれを飲むことはない。わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。彼らはさきにあなたにむかって言った、「身をかがめよ、われわれは越えていこう」と。そしてあなたはその背を地のようにし、ちまたのようにして、彼らの越えていくにまかせた』」(同 51:21―23)。

神の目は、各時代を見通して、地上の勢力の総攻撃が起こる時神の民が直面しなければならない危機に注がれる。彼らは、捕われた流浪の民のように、飢えや暴力によって死ぬのではないかと恐れる。しかし、イスラエル人の前で紅海を分けられた聖なる神は、その大いなる力をあらわして、彼らを捕われの身からもどされるのである。「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ」(マラキ 3:17 )。この時、キリストの忠実な証人たちの血が流されたとしても、それは、殉教者の血のように神のために収穫をもたらすためにまかれる種とはならないのである。彼らの忠誠は、他の人々に真理を悟らせるあかしとはならない。なぜなら、強情な心は、寄せてくる憐れみの波を拒み続けて、それらが2度とかえって来ないようにしてしまったからである。今義人が、むざむざ敵の餌食になるならば、それは暗黒の君の勝利になってしまう。そこで詩篇記者は「主(は)悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠(される)」と言っている(詩篇 27:5)。キリストも言われた。「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる」(イザヤ 26:20、21)。彼が来られるのを忍耐して待つ者たち、その名が命の書に記されている者たちの救出は、実に輝かしいものとなる。
各時代の大争闘「大いなる悩みの時」より引用

The First Seven 6: ノアの洪水(三天使の使命とSDAの信仰)

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