究極の試練

イシマエルとの別れ

アブラハムの生涯は悩みと苦悩の中にあって祈り抜き神様と共に生きた生涯だったといえる。神様から「我が友」との言葉を頂くほどの信仰者である。老齢のアブラハム夫妻に子どもが与えられ、アブラハムから生まれた子どもたちがこの地に満ちることが神様の約束であった。今のように聖書があり同じ信仰を持つ仲間の証を自由に聴くことのできる時代ではない。時々、神様ご自身が語られたり啓示を与えることでそれを信じた。しかもその語りかけや啓示は数年或いは数十年に一度の割合。神様からの言葉を心に刻みつけて数十年信じ続けることは現代よりもはるかに難しいことだと思う。約束の成就が遅れているように感じたアブラハム夫妻は妻の侍女との間に子どもをもうけることが神様の約束だったのではないかと思いハガルとの間にイシマエルをもうける。しかしこれは神様の方法ではなかった。それから更に時を経て約束の子イサクが誕生する。しかし、約束の子どもの誕生でサラとハガルの関係は更に悪化し子どもの成長する環境として相応しくないという理由で、サラはハガルトイシマエルを追い出すようにアブラハムに提案。不承不承アブラハムはこれを受け入れ彼らを家から追い出すことに。子どもを失うことの辛さ、悲しさ、寂しさ、そして自分の判断が間違っていたことに対する後悔の念がアブラハムを苦しめた。神様は約束の子がサラとアブラハムとの間に生まれるように計画したのにそれを待てず自分たちの方法で子どもをもうけたこと、そしてサラを妹だと半分偽ったことをについてアブラハムの信仰を更に完成させる必要を感じられたようだ。

神は、アブラハムを信仰の父として召されたのであるから、彼の生涯は後世の人々の信仰の模範となるべきであった。しかし、彼の信仰は完全ではなかった。 彼はさきに、サラが妻であることを隠し、こんどはハガルと結婚して神への不信を示した。神は、彼が最高の標準に達するために、これまでまだだれも召されたことのないきびしい試練に彼を会わせられた。彼は、夜の幻の中でモリヤの地に行き、そこで示される山の上で、むすこを燔祭としてささげるように命じられた。
人類のあけぼの電子版 p107  信仰を試されたアブラハム

苦悩

イシマエルを失い、今度はイサクをささげるようにとの命令を神様から受ける。自分の知り合いの中にはお子様をなくされた方がいらっしゃる。癒えることのない心の傷を考えると胸が張り裂けそうになる。癒えない心の傷が少しでも和らぐことを祈ることしかできない。聖書の文面だけを読めば人ごとのように思えてしまうが自分が遭遇している場面だと思って読めば苦しくて読めなくなる。

彼は、天幕にもどって、イサクが若者らしく無心に熟睡しているところへ行った。父親は、むすこのいとしい顔をしばらくながめていたが、身震いして離れ去った。彼は、サラのところへ行ったが、サラもよく眠っていた。もう1度むすこを抱かせるために、彼女を起こすべきであろうか。神の要求を彼女に知らせるべ きであろうか。彼は、自分の心中を彼女に打ち明けて、この恐ろしい責任を彼女 にも共に負ってもらいたいと思った。しかし、彼女は、自分を妨害するかも知れ ないと恐れて思いとどまった。イサクは、彼女の喜びであり誇りであった。彼女の生命は彼にしっかり結ばれていて、母の愛情から、彼を犠牲にすることを拒む かも知れなかった。
人類のあけぼの電子版 p109   信仰を試されたアブラハム

アブラハムの生涯中の最長の日が、やっと暮れかけていた。むすこも若者たちも眠っている間、彼は祈り通した。そして、彼は、天使があらわれ、試練はもうすんだ、イサクを傷つけずに母親のもとに帰してもよいというのを期待していた。 しかし、彼の心の苦悩は取り去られなかった。長い日がもう1日続き、その夜も 彼は心を低くして祈った。しかし、耳に聞こえるのは、彼のむすこを奪い去る命令であった。サタンは、疑いと不信を耳もとでささやいたが、アブラハムはその 声にさからった。彼らが、3日目の旅を始めようとしたとき、アブラハムは、北のほうを見ると、モリヤの山には約束のしるしである栄光の雲がかかっていた。 そして、彼は、語りかけた声が天からのものであることを悟った。
それでも、アブラハムは神につぶやかず、主の恵みとまことの証拠を考えて心を強くした。このむすこは、予期しないのに与えられた。尊い賜物を与えたかた は、ご自分の与えたものを取りもどす権を持たれないであろうか。すると信仰は、 約束をくりかえす。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
人類のあけぼの電子版 p109  信仰を試されたアブラハム

真の理解者

イサクをささげる苦悩を誰よりも理解できる方が父なる神様である。大切なひとり子イエスキリスト様を死に渡さなければならなかった。

しかし、むすこを死にわたすという父の犠牲の大きさを理解できるのはただ神だけである。アブラハムは、別れの光景を神以外のだれにも見られたくなかった。 彼は、若者たちに残っているように命じ、「わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」と言った(創世記 22:5)。た きぎは、犠牲となるイサクが背負い、父は、刃物と火を持って一緒に山頂さして登った。このように、おりと群れから遠く離れたところで犠牲の羊はどこから来 るのかと、イサクは心の中で不思議に思った。彼は、ついに、「父よ、・・・・火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」とたずねた。ああ、これはなんという試練であったことだろう。「父よ」という愛のこもった言葉が、どんなにアブラハムの心を刺したことであろう。まだ知らせることはできなかった。 「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」(同・22:7,8)。
彼らは、定められた場所で祭壇を築き、その上にたきぎを置いた。そして、アブラハムは震える声で天からの言葉をむすこに知らせた。イサクは、自分の運命 を知って恐れ驚いたけれども、さからわなかった。彼は逃げようと思えば、彼の運命から逃げることができた。悲しみに打ちひしがれた老人は、恐ろしい3日間の苦悩に力がつきていて、元気な若者の意志に逆らうことはできなかったことで あろう。しかし、イサクは幼いときから、すぐに信頼して服従することを学んで いたから、神のみこころが知らされたとき、彼は喜んで従った。彼はアブラハム と同じ信仰を持っていたから、自分の生命を神の供え物としてささげる召しを受 けたことを名誉に感じた。イサクは、父をいたわり、悲しみを軽くしようと努めた。そして、父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇に結びつけるのであった。
人類のあけぼの電子版 p110   信仰を試されたアブラハム

試練の意味

苦しい状況。試練。それが仮に本人の蒔いた種であったとしても聖書の世界では因果応報とは言わず摂理と考える。原因がどこにあろうとも試練は神様の許しの中で起きている。その意味が分からず苦しむ。人生を諦めたくなる。刹那的な生き方になってしまう。しかし、アブラハムの生涯を追体験するときに試練が鍛錬であり人の品性を更に清め高貴なものにするためのものであることが分かる。歓迎できることではないが、それが最善の道だと信じることはできる。

神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アブラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである。 自分のむすこを捧げることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はなかった。神は、苦悩と屈辱の死に、み子を渡された。神のみ子の屈辱と魂の苦悩を見た天使たちは、イサクの場合のように、介入することが許されなかった。「もうそれでよい」という声は聞かれなかった。堕落した人類を救うために、栄光の王はご自分 の生命をお捧げになった。神の無限のあわれみと愛の証拠として、これ以上の強力なものがあるだろうか。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらな いことがあろうか」(ローマ 8:32)。
人類のあけぼの電子版 p112  信仰を試されたアブラハム

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