愛には恐れがない

失望と混乱

昨日与えられた御言葉で自分の信仰の足りなさを痛感した。イエス様に対して「お出来になるならば」と悪霊に取り憑かれた我が子を連れてきた父親が言った。それに対してイエス様は「もしできるならば、というのか」と信仰のないことを責めた。この場面の聖句が与えられたので自分もいま祈っている課題に対してもっと本気で神様を信じて祈らないといけないことを痛感した。そのことを昨日投稿した。昨日も今日も悔い改めの祈りから始まって神様を信じ抜くことができる信仰をくださいと祈った。何かが変わるような気がして期待して祈った。そうするとその祈りに応えるかのように、妻から連絡があった。非常に厳しく激しい態度で怒り狂ったメールだった。自分の住民票を送れと言われたので用途を明確にしないと発行してもらえないから教えて欲しいとメールを出した。それに対して返信がなかったのでこちらもそれ以上の対応ができずにいたら、今日になって何故住民票を送らないのだと激昂してきた。加えて退職金の半分をよこせと言ってきた。家庭の回復を祈り続け、無理かも知らないと思いながらも信仰を求めながら祈り続けた。その結果がこれである。今は妻からメールがくると動揺してしまう。次は何を言われるのか怖くて仕方ない。とりあえず仕事の休憩時間に役場に行き住民票を取りすぐに送った。が、退職金は手をつけることができない。これは子どもたちの学費でもあり、自分が死んだ後家族に残すお金である。これに手をつけるわけにはいかないのである。そのようなことを説明しても聞き入れずキレるだけだと思うができればこの退職金には一切手を付けたくない。新しい気持ちで祈り始めたら早速その祈りを全否定するような状況になってしまった。郵便局の駐車場で涙が溢れた。神様はどこに行ってしまったのか。いつも自分のそばにいてくださる筈なのに今日はどこに行ってしまったのか。失望と混乱でしばらく仕事に手がつかなかった。この状況でも神様は信仰を持ち続け祈りなさい、と言うのだろうか。もう無理ではないか。この状況が好転するとは思えない。

仕事が終わって家に戻りずっと祈っている。これからどうして行くべきなのか。信仰を持って祈りたい気持ちはあるけれど無理なものは無理だと思う。神様も人の心を強制的に変えることはできない。だからもうこの祈りはやめてしまおう、とも思っている。無理であり祈るだけ無駄な気がする。

話は変わるが今日与えられた聖書の言葉が有名なコリント書の言葉だった。

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

Though I speak with the tongues of men and of angels, and have not charity, I am become as sounding brass, or a tinkling cymbal.

コリント人への第1の手紙13:1

正直な話をすれば、この聖句はあまりにも有名で良く開く御言葉なので今朝これが送られた時にインパクトはあまりなかった。しかし、妻の激昂と怒りのメールを読んでしばらく考えていた。自分はかつての優しい妻は大好きだがこのように豹変した妻のことは苦手であり受け入れたくないと思っている、ということを自覚した。今の狂ったような妻を愛することを教えようと、あらかじめこの聖句が今朝送られたのかもしれないと思っている。確かに聖書は、愛には恐れがないとも教えている。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

 There is no fear in love; but perfect love casteth out fear: because fear hath torment. He that feareth is not made perfect in love.

ヨハネ第14:18

失望して、すぐに信仰を与えてくださいと今までと同じ祈りをすることは難しい。が、愛を実践できるようにはなりたい。もう少し神様に聴きながら今後どうして行くべきかを考えたい。

【鬱とわたし】3.休職期その1

 

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