届かない声、届かない想い

家庭教師

先週いっぱいで数週間に渡る補習授業を終えた。今週からまた勉強から離れる生活を送るはずだった。が、今日突然連絡がありもう一人家庭教師を頼まれた。恐らく「無料で勉強を見てもらえる」という話が広まっているのだろう。狭い地域なので「あの子にはやってこの子にはしない」という訳にはいかない。当然引き受けた。9月の後半までおよそ1ヶ月間殆ど毎日お願いしたいと言われた。とりあえず週5日の補習授業をすることになった。また忙しくなるけど苦ではない。はじめて本人と話してみたが、まだ完全に心を開いてくれているわけではないので十分に事情を把握していない。が、周りの大人や友達に自分が投げかけた言葉が通じていないことを悩んでいる。色々と叫んできたようだが、うまく伝わらなかったようだ。「分かってもらえない経験はとても辛かったね。自分は勉強を教えるだけの存在だけど、何をぶつけても必ず受け止めるからそれだけは安心してね」とだけ伝えた。結構利発そうに見えるお子さんだが、満たされていない子は能力を十分に発揮できないことを見てきたので、学習以上に大切なことを誠実にやっていこうと思う。そしてできれば神様を信じるきっかけになってほしいと願っている。

届かない想い

出エジプトをしたイスラエルの民はシナイまでやってきた。シナイ山はモーセが神様から律法を与えられた聖なる場所である。しかし、その聖なる山の麓ではなかなか帰ってこないモーセらを待ち焦がれて、愚かなことにアロンをたぶらかして偶像を作ってしまった。そしてそれを拝んでいる時にモーセが山から降りてきた。というより、神様から民が偶像礼拝をしているからすぐに山を降りるように言われた。

今日でも快楽を愛する心が「信心深い様子」のかげに隠れていることがなんと 多いことであろう。礼拝の儀式を守りながらなおかつ人々が利己心または、肉欲 の満足にふけることを許す宗教は、イスラエルの時代と同様に今日でも、多くの 人々に喜び迎えられている。そして、教会の権威ある地位の人が、清められてい ない人々の欲するところを受け入れて、彼らが罪を犯すのを助長する柔弱なアロ ンのような人々が、まだいるのである。
人類のあけぼの電子版 p263  シナイでの偶像礼拝

神様の優しさ、そして仲介者なるモーセの忍耐がイスラエルの民にはどうしても伝わらない。イスラエルの民を半ば見捨てるような発言が神様からあった。これに対して怒り心頭のモーセは急に態度を変え仲裁に入る。

「わたしをとめるな。・・・・わたし(は)・・・・彼らを滅ぼしつくすであろう」と神は 言われた。もし、神がイスラエルを滅ぼそうとなさるならば、いったいだれが彼 らのために嘆願することができようか。たいていの人は、罪人が滅びるのを、そ のまま放任しておくものである。人々の忘恩とつぶやきの声しか聞くことのでき ない苦労と重荷と犠牲の生活を捨てて、それに代わって安楽と栄誉ある地位とに 喜んでつかない人間がいったいあるであろうか。神ご自身がモーセを解放すると 言っておられたのである。
しかし、モーセは失望と怒りしか感じられないところに、希望を見いだした。 モーセは、「わたしをとめるな」という神の言葉を、哀願を禁じるのでなくて、そ れを奨励するものと解した。そして、モーセの祈りだけがイスラエルを救い得る ものであって、そのような祈りによって、神は、ご自分の民をお救いになるもの と考えた。「モーセはその神、主をなだめて言った、『主よ、大いなる力と強き手 をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの 怒りが燃えるのでしょうか』」(同・32:11)。
人類のあけぼの電子版 p264  シナイでの偶像礼拝

仲介者

自分は教員をしている頃、後輩の先生方に「生徒が親子でうまくいかなくなった時には教員が祈りながら知恵をいただいて通訳になることが大切である」と言ってきた。生徒(子ども)が「ぼく、親のことがあまり好きじゃないんです。おそらく親も自分のことを好きじゃないと思うので」と言った場合、親御さんに対してどのように伝えるのか。そのまま言葉を伝えるだけでは通訳ではない。言葉が通じないのに通じない言葉をそのまま伝えて良いわけがない。本当に嫌いな親に対して「自分は親が好きではない」と言うだろうか。本当に嫌いなら話題にすることすら嫌がると思う。また、嫌いな親が自分のことをどう思っても構わないはずなのに「親も僕のことを好きじゃない」と言うだろうか。

自分なら「お子さんは親御さんが大好きですが今はその気持ちをうまく表現できなくて悩んでいるようです。そして『僕のことをそのまま愛して欲しい』と叫んでいらっしゃいますよ」と通訳すると思う。生徒も親御さんもお互いにお互いをおもう強い気持ちを持っている。しかしそれがうまく伝わらない時がある。そんな時に周りの大人が上手に通訳してあげられると良いのだが。本来は、その役は学校が担うべきだと思っている。

恐らくモーセは神様の思いと民の思いの両方を理解していたのだろう。だから、上手に通訳できたのだと思う。

最終的に

モーセは史上最高に寛容な人、と評される。

あまりにも神様に背中を向けてばかりのイスラエルの民に対して「いい加減にしなさい」と言う気持ちに何度なったことだろうか。実際、モーセは2度目の水の奇跡の時に岩に対して命じれば良いところを怒りに任せて杖で叩いてしまった。これがモーセが約束の地に入れない決定打になってしまう。しかし、イスラエルの民に真剣に向き合うモーセはやはり彼らを心の底から愛していた。そのことが書物に書かれていた。
モーセの祈りの言葉は、われわれに天の記録のことを考えさせる。それにはす べての人の名がしるされ、善悪ともにその行為が正確に記録されている。命の書 には、神に奉仕したすべての者の名がしるされている。もしそのうちの誰かが神 から離れたり、または、頑強に罪から離れず、ついに聖霊の働きに心を堅く閉じ てしまったりするならば、彼らの名は、審判のときに命の書から消され、滅ぼさ れてしまう。モーセは、罪人の運命がどんなに恐ろしいものであるかを知ってい た。しかし、モーセは、もしイスラエルの人々が主に拒否されるならば、彼らと 共に自分の名も消されることを願ったのである。彼は、それほどまでに恵みに満 ちた救いにあずかった人々の上に、神の刑罰がくだるのを見るにしのびなかった のである。イスラエル人のためのモーセのとりなしは、罪人のためのキリストの とりなしを代表している。しかし主は、キリストが負われたような罪人の罪をモ ーセが負うことはお許しにならなかった。主は言われた。「すべてわたしに罪を犯 した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう」(同・32:33)。
人類のあけぼの電子版 p270 シナイでの偶像礼拝

人がもし、自分の気持ちを上手に通訳してくれる存在に出会えなかったとしても、イエス様は唯一にして最高の仲保者である。望みさえすればこの方に間違いなくお会いすることができる。

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