混沌
オリンピック、パラリンピックがいよいよ始まる。自分が生まれた翌年に東京オリンピックが開催されたから人生で2度目の東京オリンピックを経験することになる。今は青森にいるので東京オリンピック・パラリンピックの盛り上がりムードはあまり感じられない。というか地元ではほとんど話題になっていない。それよりも昨年開催されなかったねぷた祭りが開催されることの方が大きな話題になっている。五所川原のネプタ祭りは8月4日から。携帯に飛び込んでくるニュースを見ていたがブルーインパルスのデモフライト、またコロナ感染者の報道などオリパラを歓迎するニュースとそれを批評する話題とが入り乱れており混沌としている状態が青森にいても伝わってくる。無観客で開催されるオリパラだが、元々はコロナに打ち勝って勝利の祭典にしようという意気込みで当事者の方々はご苦労されてきた。日本人は色々な意見を持つ人がいるがいざという時には一致団結できる国民だと思っていたが今回のオリパラに関しては少し違う側面を見せられた気がする。いつになっても平行線のまま賛成派、反対派がそれぞれの意見をぶつけ合っている。自分は開催に賛成している。だからいう訳ではないが、反対派はオリパラに反対な人とコロナを盾に単に政府や自治体のしていることに対して批判しているだけの人もいるように思う。何か大義名分を後ろ盾にして批判を繰り返す、そのような人が多くなっているなというのが率直な感想である。混沌とした状態から何かが生まれるのだろうか。
安息日
今週もあっという間に過ぎてしまい安息日に入る事ができた。今週は特に激しい信仰の戦いをほんの少し経験した。まだまだ序の口だとは思うが色々なことを考えさせられた。そして最終的に神様に頼ることを学んだ。イエス様の十字架上で発した7つの言葉があるが、その最後の言葉が神様に頼る、委ねる祈りだった。
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
And when Jesus had cried with a loud voice, he said, Father, into thy hands I commend my spirit: and having said thus, he gave up the ghost.
ルカによる福音書23:46
神様にお委ねすることの難しさを経験した。お委ねするといいながらまだ自分自身の手に握り続けている願いや祈りがあることを示された。これも含めてお委ねしなくてはならないのに。不信仰を示されサタンからも攻撃された。非常に激しく攻撃された。信仰がないこと、そんなことでは神様が祈りを聞いてくれるはずないと言われ続けた。当たっているだけに傷ついた。重荷と悶々とした思いを持って、傷ついた心を癒していただくべく安息日に入った。この日、神様とだけ時間を過ごして全ての悩みを聞いていただき心を回復していただこうと思っている。世の中には無事に安息日を迎えられない人もいるだろう。そのような中で平安に安息日を迎えられることを心から感謝したいと思う。
真の信仰は、約束された祝福が、実現しそれを感じることができる前 に、それをつかんで自分のものとする。われわれは信仰をもって、第2の幕の中に、われわれの願いをささげ、信仰によって、約束された祝福をつかみ、それを自分たちのものとして主張しなければならない。それから、われわれは、祝福を受けることを信じなければならない。なぜならば、信仰が祝福をつかんでいるのであって、み言葉にあるとおりに、それはわれわれのものだからである。「なんでも祈り求めることは、 すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであ ろう」(マルコ 11:24)。ここに、われわれが祝福を受けたと感じる前に、受けることを信じる信仰、すなわち、真の信仰がある。約束された祝福が実現して、それが自分のものとなった時に、信仰はそれにつつまれてしまう。しかし、多くの人々は、聖霊を豊かに受けている時に、大きな信仰を持っていて、聖霊の力を感じるのでなければ信仰を持つことができないと考えている。このような人々は、信仰と信仰によって与えられる祝福とを混同している。われわれが聖霊に欠けていることを感じる時こそ、信仰を働かせるべき時である。厚い黒雲が心を閉ざすように思われるその時に、生きた信仰によって、暗黒をつらぬき、雲を散らさなければならない。真の信仰は、神のみ言葉の中に含まれた約束に基づいていて、そのみ言葉に従う者だけが、その輝かしい約束を自分のものにすることができる。
エレン・ホワイト 初代文集 電子版p88.89
「饅頭のような聖書の22の話』第4回「神と人間との間における幸せの規則『十戒』1〜4」10月6日 講師:河原久
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