ありがとうの反対
今日も地元の教会に出席した後、いくつかのオンライン礼拝を拝聴していた。それぞれの教会の牧師先生がとても心に響くお話をしてくださり恵まれた「安息日の午後」の時間を過ごすことができた。その中の一つの礼拝メッセージから考えてみたいと思う。
「ありがとう」の反対語を問われているが自分は即座に分からなかった。子どもさんがそれに応えていたので非常に驚いたが正解だったので尚驚いた。反対語は「当たり前」とのことだった。
自分と神様との距離、自分と神様の関係について深く考えさせられる内容のメッセージであった。テーマとなっている聖句はルカによる福音書である。
「イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。 そして、ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。」
ルカによる福音書 17:11-19 口語訳
重い皮膚病にかかった10人がイエス様に出会った。彼らは癒しを求めたが、イエスは遠く離れた彼らに言葉をかけただけだった。祭司に体を見せるように命じたのである。当時、祭司は宗教的な仕事だけでなくユダヤ社会における社会的側面の権威をも持っていた。重い皮膚病を患うとユダヤ社会から隔絶される。しかしそれが完治したなら祭司がこれをみて完治と断定したところで犠牲を捧げる儀式などを経て元のユダヤ社会に復帰できる。イエスはその手続の第一歩である「祭司に見せる」ことを命じた。この10人も凄いと思うのだが、この時点でまだ重い皮膚病は癒されていない。なのに10人は完治を前提として祭司のところに向かうのである。実際その道中で癒された。
2種類の人
この癒しが起こった後でサマリア出身のひとりだけがイエスのもとに戻ってきて感謝の気持ちを表現するのである。当時、サマリアは雑婚によって血が混じった忌み嫌うべき存在であった。また神殿をめぐる争いなど歴史的に赦せない出来事があり断絶状態にあった。しかし、癒しを経験して心からの感謝を伝えたくて小躍りしながら戻ってきたのは忌むべきサマリア人だけだった。
説教にも出てくるがここにふたつの教訓を学ぶことができる。
①神様への祈りが叶えられても、神様との距離が近くなるとは限らない
②神様への祈りが叶えられたことを、神様とのさらなる親しい関係へと繋げることができる
①に関してはその実物教訓がある。それは出エジプトの民である。奇跡の連続、御力炸裂の状況下にあってイスラエルの民はまだ神様を裏切り悲しませることを続けた。また説教でも述べられているが、逆に祈りが聞かれずそれでも必死に祈り続けている時、実は神様との距離が非常に近く最も安全なところにいるとも言える。
②に関してはまさに、この戻ってきたサマリア人がそうである。彼にとって癒しの奇跡は「当たり前」の出来事ではなく、長年夢見てきた祈りのテーマだった。それが叶えられることによってこの人の信仰は更に増し加えられ、イエス様に対する絶対的な信頼に繋がったと言える。
祈りが叶えられる前に
この礼拝メッセージを視聴しながら、神様に祈り求める時にはその祈りが叶えられた時を想定して自分自身の取るべき態度を認識しておく必要があると思った。今自分が祈り求めていることが、叶えられそうにないほど難しいことであるので神様に対して愚痴っぽくなってしまうこともある。しかし、今から8年前に自分はもっと難しいことを神様に叶えていただきその道を開いていただいたのである。そのことを忘れ、感謝の気持ちではなく愚痴も含まれた態度で今の大きすぎる問題のために祈っている。
以前にあれほどのことをしていただいたのに、もう感謝の気持ちを失っていることに気づかされる。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇103:2(新改訳)
2021年11月6日 安息日礼拝〈ライブ〉メッセージは1:00:10から
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