教会
コロナの感染が爆発的に広がり各地の教会がまた集会で集まることのできない状態になっている。が、自分の通う教会は結構近隣でも感染者はいるものの閉じずに毎週礼拝を行なっている。結構閉鎖的な教会なので最近居心地の悪さは感じているが、それでも勇気を出して毎週通っている。そして今日も神様はとても大きな祝福をくださった。
メッセージ1
礼拝メッセージは「信徒礼拝」だったので牧師ではなく教会員の姉妹が担当してくださった。姉妹は、自分と同じ職場の介護施設で働いている。前職は所属する教団の職員だったが期待する仕事ができなかったという理由で解雇通告を受け、東京にある系列の病院でアルバイトをしながら介護の資格を取ることになった。いよいよ勉強が始まる時に牧師先生と祈る機会が与えられたという。祈りの最中、姉妹は涙が止まらなかったそうだ。牧師先生が共に祈ってくださる感謝の涙ではなく、やりたくもない介護の資格を取得しなくてはならない状況、或いはそうなった自分に不甲斐なさを感じて流れた涙だった。どうして、最も困難な状況なのにイエス様は助けて下さらないのだろう、どうしてイエス様は祈りに応えて下さらないのだろう、と悶々とした気持ちを持ち続けた。そして資格を取得したのち、東京の病院を辞め青森にある当院の介護施設で12年前から働くようになった。決して望んだ道ではなかったが、振り返ってみると確かに神様の導きが常にあり「これで良かったのだ」と心から思えるようになった。そのような証を礼拝メッセージの中で話してくださった。自分のことを話しているような気持ちで聴いていた。全てにおいて同感だった。夢にやぶれ一見惨めな状況に身を置いているがそれでもそれが神様の御心ならば、それに従いたいと心から思った。
神の導きの手を求めて手を差し伸べている全ての者にとって、最も落胆してしているときしている時が、神の助けがい一番近いとき時である。
各時代の希望 2巻 p343
メッセージ2
教会から家に戻り、いくつかの教会で行われているオンライン礼拝を視聴していたが、まさに自分に対して語っていると確信できるようなメッセージに出会った。
イエス様の十字架ののち、全ての希望が絶たれたかのようにうなだれて歩く二人の弟子(一人はクレオパ)に対して、イエス様が同行される場面である。所謂、エマオに向かう途上での出来事。彼らは最初、共にいらっしゃるのがイエス様だとは気づかなかった。目的地に近づき、イエス様に同宿の申し出をする。イエス様が同意され他の弟子たちと一緒に食事をする際、パンを割く様子でイエス様だと分かった。自分たちの人生にもイエス様が共にいてくださっているのに、それを認めず肩を落としていることが何と多いことだろうか、と牧師は語る。まさに自分のことである。イエスキリストは「私に頼りなさい」ではなく「私に頼って欲しい」と切望さ私たちを招いてくださっている。全ての思い煩いから手を離してイエス様のところに行くことを望んでおられる。そして、私たちがイエス様のところに行く時「全てのことあい働きて益となる」のである。
有名な讃美歌のひとつに「慈しみ深き、友なるイエス」がある。アイルランドの牧師であるジョセフ・スクライヴェンが作詞した。結婚式の前日に婚約者を事故で失う悲劇を経験した。また、同じく婚約していた女性を病気で失う経験もした。生きる希望も失うような経験だったが、そのなかにあって重篤な病を抱えた母親を励まそうと作詞したのがこの「慈しみ深き、友なるイエス」という讃美歌だった。悲しみや困難、試練は時に人の視界からイエスキリストを奪ってしまうかもしれない。しかしそれでも神様は共にいてくださる。そして常に助けてくださる。
メッセージの冒頭から涙が止まらなかった。自分に対してイエス様が直接語りかけていらっしゃる気がしてならなかった。メッセージそのものもありがたかったが、イエス様の臨在が勿体なくて涙が溢れ出た。
今も生きておられ、共にいてくださるイエス様を信頼しもっと密接な関係を築かせていただきたい。
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