コルベ神父
中学生の頃だったか、校内のキリスト教プログラムで「コルベ神父の生涯」を描いた映画を観せてもらった。アウシュビッツにおいて脱走した者がおり、収容所の決まり(連帯責任)により10名の身代わりが無作為に指名され死刑になった。刑務官が「お前」「お前」とゲームでもするかのように身代わりとなる人を指差すシーンが強烈で今でもそのシーンが頭に残っている。
コルベ神父とは
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(出生名ライムンド・コルベ・Rajmund Kolbe)は、1894年1月8日に当時ロシア帝国の衛星国であったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた。
父のユリオ・コルベは、在俗フランシスコ会のリーダーであった。愛国心に富んだ彼は、第一次世界大戦中にポーランド独立のための義勇軍に参加し、ロシア軍に捕らえられ、1914年に処刑されている。母のマリア・ドンブロフスカは、結婚前は修道生活を志したことがあったが、帝政ロシアの統治下にあった地域ではカトリックの修道院は許されていなかったため、修道生活は不可能であった。
1907年に兄と共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会。
1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられた。後の1914年にローマで聖母マリアの崇敬を示すために、さらにマリアの名前を取って、マキシミリアノ・マリアとした。
1917年10月16日に、6人の志願者と共に神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で聖母へ奉献を行い、「汚れなき聖母の騎士会」を創立した。クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤めたが、ローマで感染した結核のため1920年8月から1921年4月まで保養地のザコパネで療養生活を送っている。
その後、出版による布教活動を志したコルベ神父は1922年に初めて『無原罪の聖母の騎士』(Rycerz Niepokalanej)を執筆し出版した。部数は5,000部で、執筆者は神父一人であった。 同年にグロドノの修道院に移り、当地での出版活動を開始した。この頃には、コルベ神父と共に後に日本に宣教に来ることになるゼノ・ゼブロフスキー修道士と出会っている。
コルベ神父を含む5人の宣教師は、1930年3月7日にフランスのマルセイユから上海行きのアンジェ号に乗船し、4月11日に上海に到着した。上海では実業家で慈善家のカトリック信者の陸伯鴻と面識を持ち、援助の申し出を受けたが、布教活動は成功しなかった。この後も陸伯鴻は1931年に来日し、再び援助を申し出ている。
1930年4月24日にゼノ修道士、ヒラリオ修道士ら3人で長崎に到着すると、早坂司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願った。司教はコルベ師が哲学ならびに神学博士号を持っていることを知ると、長崎大司教区、大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可した。翌月の5月には、長崎大浦の仮修道院で日本語版の『無原罪の聖母の騎士』の出版を開始した。翌年には聖母の騎士修道院を設立した。
1932年5月にはインドで修道院を設立するために神戸から船に乗り、エルナクラムを訪れて、教区の司教から歓迎されて出版の許可も得たが、コルベ神父がポーランドに戻ったこともあり、その後の計画は進まなかった。1933年4月にポーランドでの管区会議に出席するために日本を離れたが、その間に重病であった駐ポーランド公使河合博之のカトリックへの改宗に尽力している。そして再び日本に戻った後、1936年にニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために故国ポーランドに帰国した。
同年9月19日、コルベ神父は修道院に残った修道者らと逮捕され、彼らはドイツにあるアムティッツ強制収容所へと収容され、11月にポーランド領にあるオスチェロー強制収容所へ移送された後、12月18日に釈放された。病院となっていたニエポカラヌフ修道院に戻ったコルベ神父たちは、ユダヤ人にもカトリック教徒にも分け隔てなく看護をした。この行為はナチスを刺激し、監視が強化された。どうにかポーランド語版のみ『無原罪の聖母の騎士』の再出版を許可された。修道院には再び多くの人が集まり、食料不足に悩まされた。
1941年2月17日にゲシュタポにより、コルベ神父は4人の神父と共に逮捕された。その理由としては、コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチスに対して批判的なものであったからとも、当時のナチスはユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからともされる。
コルベ神父の逮捕では、退会したニエポカラノフの元修道士が署名した告訴状が証拠とされたが、ドイツ語の読めなかった元修道士はドイツ語で書かれた文書をいわれるままにサインしただけであり、しかもその文書はゲシュタポによる偽造であった。この後、20人の修道士が彼の身代わりになることを申し出ているが、この申し出は却下されている。
コルベ神父はパヴィアックの収容所に収容された後に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られた。囚人番号は16670であった。
(引用、参考 wikipedia)
身代わり
1941年7月末、この孤児やコルベ神父と同じ号棟の囚人が脱走したのである。1人脱走者が出ると、同じ棟の10名が処刑される決まりだった。しかも処刑法は陰惨を極めた。座ることもできないような狭い懲罰牢に押し込められ、食べ物も水も一切断たれ、餓死させられるのだ。その苦しみは、言語に絶する。
この時も、無作為に10人が選ばれた。1人ずつ番号が読み上げられていく。すると番号を呼ばれた1人が自らの不運を嘆き、「ああ妻や子供に会いたい」と泣き叫んだ。
その時、コルベ神父が進み出た。何をするのかと息を呑む周囲の人々の面前で穏やかに、しかし毅然と、こう申し出たのである。
「私はカトリックの神父です。もう若くもなく、妻も子供もいませんから、あの方の身代わりになりたいと思います」
そして、懲罰牢の中に消えていったのだった。
コルベ神父は一緒に処刑される餓死刑者のためにひたすら祈り、讃美歌を歌った。1人、また1人息絶えていく中で、なお彼は意識を失わず生き続けた。2週間後、さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、天に召される。その時、彼はなおも祈り続けながら自らの手を差し出したという。1941年8月14日没。47年の生涯だった。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.
ヨハネによる福音書15:13
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
And being found in fashion as a man, he humbled himself, and became obedient unto death, even the death of the cross.
ピリピ人への手紙2:8
Q232なぜユダヤ人は嫌われるのですか。【3分でわかる聖書】
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